伯爵と子爵
ホールに戻った途端、怖い顔をした二井子爵がツカツカと近付いてきた。
後ろには二井家の者達と、それに混じって茜もいる。
「少しいいかね」
聞いているのに、有無を言わせぬ言葉の圧があった。
父と同じくらいの年の二井子爵は、勇一郎と婚約した当初、一度だけ顔を合わせたことがあった。
政略結婚と分かっていたため、特に向こうも自分に興味を示すようなことはなかった。ただ、予想以上にみすぼらしいとでも思われたのか、向けられる目に蔑みがあったのを覚えている。おそらく、嫁を取るという話だったら彼は了承していないだろう。勇一郎が婿に入るということで、みすぼらしい娘が華族家に入るわけでもなし、大目に見られた感じがあった。
きっと彼には、息子の元婚約者だったからなどという情はない。
顔を見るからに、責める意思しか感じ取れなかった。
「千代さん、息子にふしだらな誘いをしたようだね」
「誓って、私はそのようなことは致しておりません」
千代は堂々と答えた。ここで下手に怯めば、嘘だと即座に判じられる。
当然、この程度で二井子爵が信じてくれるわけもなく。
「息子からもそう聞いているし、茜さんも二人で部屋にいるところを見たと言っている。しかも……」
彼の視線が千代の胸元に落ちた。
「ドレスがはだけていたそうじゃないか」
思わず胸前でショールを合わせる手に力が入る。
「それは……っ」
千代は言いよどんだ。
相手は華族だ。自分も士族の娘ではあるが、やはりそこには越えられない壁がある。
息子に襲われましたと言うことで、二井子爵の反感を買わないかと引っ掛かってしまった。しかし、肯定しようと否定しようと、彼の機嫌を損ねることには変わらないのだろう。
チラッ、と二井子爵の背後に焦点を合わせれば、茜が憫笑しているのが見えた。
また、ホールにいる大半の者は酒が入っていたり会話に夢中になったりで、まだこの異様な空気に気付く者は少なかったが、近くの者達は、何かあったのではと気づきはじめていた。
すると、隣の雪人が胸に手を当て腰を折った。
「失礼します。夫の一乗雪人と申します、二井子爵。その件ですが私も現場におりまして……部屋に入った時、私が見たのはご子息が妻に覆い被さっている姿でした。二井子爵がお耳に入れた話は、おそらく誤った情報ではないかと。茜さんは私の後に入ってきましたので、その時の光景は見てはいないと」
「ゆ、雪人さん……っ!?」
そんなことを言ったら、今度は二井家に雪人まで睨まれてしまう。
二井子爵の眉宇が険しくなる。
「一乗君だったかな。つまり君は、息子や茜さんが嘘を吐いていると言いたいのかね」
いけない。これ以上、雪人が自分を庇えば、雪人だけでなく一乗家にまで影響が出る。
「もう――」
大丈夫だから、と苦々しい顔をした雪人を止めようとした時、場の空気を一変させる陽気な声が飛んできた。
「おやおや、どうしたんだ。全員不景気な顔をして……辛気くさいのう」
「と、東郷屋伯爵!」と、千代と雪人はやって来た男を見て、声を重ねた。
東郷屋伯爵は、ドッシドッシと聞こえそうなしっかりとした足取りでやって来ると、雪人と二井子爵の間で足を止めた。横目で左右の雪人と二井子爵を窺う。
「それで、何があったのかな。こんなめでたい場で、そんなしけた面は不似合いだろう」
「その……彼女がうちの息子に迫ったようでして。実は、公にはしていませんが、彼女は元は息子の婚約者だったのですよ。少々素行に問題があり、彼女との婚約は破棄して、妹の茜さんが新たな婚約者となったんですが……」
呆れたとばかりに、二井子爵は肩を持ち上げていた。
「彼女とは、千代さんのことかな?」
チラッと東郷屋伯爵が目だけで千代を見る。
「ええ、そうですが……伯爵は彼女のことをご存知で?」
「そりゃもちろん。今日は彼女に会えたことが一番の収穫だぞ。思い焦がれた娘に出会ったように嬉しかったわ。おっと、もちろん子爵のご子息のめでたい報告を祝いに来たのが目的だがな」
「は、はあ……」と、二井子爵は困惑したように顔を曇らせている。彼も、まさか東郷屋伯爵と千代が知り合いだったとは思っていないのだろう。
同じ華族といえど、伯爵位と子爵位とでは名誉、財力、政治力のすべてにおいて大きな隔たりがある。身分の差が薄くなっているとはいっても、二井子爵からすれば東郷屋伯爵は敬って然るべき相手であり、迂闊に口を挟めない。
それこそ、雪人と二井子爵の関係のように。
東郷屋伯爵は「ふぅむ」と顎髭を撫で、天井を睨んでいた。
「千代さんがご子息に迫る……なあ」
東郷屋伯爵のどっしりとした文鎮のように重い声に、皆が固唾をのむ。
「二井子爵」
「は、はいっ」
「千代さんはそのようなことをする娘さんじゃない。それは、彼女と今日挨拶を交わした者達ならば同じことを言うだろう。それに、子爵自身が現場を見たわけではあるまい?」
「それはそうですが……息子と茜さんが言うには――」
「子爵」と再度、東郷屋伯爵の岩のように重い声が二井子爵の発言を遮る。
「めでたい場だ。子息は……まあ、言い方はおかしいが無事だったのだろう? それに伝聞だけで証拠がないのならば、いくら話したとて食い違いが続くだけだ。どうだ、ここは私の顔に免じて収めてもらえないだろうか」
「伯爵っ、頭を上げられてください! わかりました! 伯爵の言うとおりにいたしますので!」
驚いたことに、東郷屋伯爵が頭を下げたのだ。




