愛し合う者達
理由は依然としてわからないが、茜は自分を貶めたがっている。そこには、雪人を害することも厭わない意思があった。
(駄目……っ、絶対に茜の思い通りになんかさせない)
雪人がこれ以上勇一郎に近付いてしまわないように、千代は力の入らない役立たずな足になけなしの力を込めて、押しとどめる。
「お願い、雪人さん……お願い……っやめてください」
相手は腐っても華族である。
手を出した末に雪人がどのような罰を受けるのか、怖くてならなかった。雪人と離れることになったら、自分はもう耐えられない。
わかって、と言うように千代は腕と足に力を入れ続けていると、ふっ、と雪人からの圧が消えた。
顔を上げると、元の優しい顔に戻っている。
「すまない……ありがとう、千代。もう大丈夫だ」
良かった、と千代の表情もほっと柔らかくなる。
「安心されているところ申し訳ありませんが、この件はしっかりとお義父さま――二井子爵に伝えさせていただきますからね、お姉さま」
茜の冷めた声で、千代の表情は一気に凍り付けされたように青ざめた。
「待って、茜!」と千代は叫ぶが、茜は勇一郎の腕を引っ張って立ち上がらせ「さっさと行きましょう」と足元がおぼつかない勇一郎を引っ張るようにして、部屋を出て行く。
そうして、彼女は傍らを通り過ぎる時ボソリと呟いた。
「本当、お姉さまって疫病神ね」
「――っ!」
息ができなくなった。
パタンと扉の閉まった軽い音が、千代には絶望の音に聞こえた。
◆
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っごめんなさい、雪人さん……っ」
千代は、涙を流しながらズルズルと床に座りこんだ。
自分のせいで雪人に迷惑が掛かってしまう。
自分だけならば、どれだけ馬鹿にされようと売女と思われようと、気にしなかった。
だけど、今日という日に『妹の婚約者を誘惑した女』と二井子爵に吹き込まれてしまったら、華族にも士族にも、有力な実業家達にも広がってしまう。
『一乗雪人は、そのような女を妻に迎えた男だ』――と。
それがどれだけ一乗家の事業にとって不利になるのか、わからない千代ではない。
茜の言うとおりだ。
こんなに好きなのに、愛する人の邪魔しかできない自分は疫病神と言わずしてなんと言うのか。
「雪人さん、お願いします……っどうか、私を一乗家から追い出してください……っ」
雪人が自分のせいで不幸になるなんて耐えられないのだ。
「千代は何も悪くない」
「でも――ひゃっ!」
腰に雪人の手を感じたと思った次の瞬間、千代の身体はふわっと浮かび、傍らにあったテーブルの上に腰を下ろされていた。
突然のことに、千代の涙も引っ込んでしまう。
雪人は千代の身体の両側に手をついて、視線を千代と合わせていた。
月明かりに、雪人の黒い瞳が煌めいている。
氷のような怜悧な光りを宿すこともあれば、ぼんぼりのような温かな光りを湛えることもある双眸が、正面からまっすぐに千代を見つめていた。
「千代以外の女なんていらない」
返事をする間もなく、押し付けられるようにして唇が重なった。
「……っん」
唇を重ねたまま、彼は体重をゆっくりと掛けてきた。次第に千代の身体は後ろへ倒れ込んでいき、テーブルに置かれていた雪人の手は、いつの間にか千代の後頭部と腰に回されていた。
トン、とテーブルに背中がつく。
「君を手放すつもりはない」
彼の唇は最後に下唇を軽く吸うと、そのまま顎から首筋をなぞり、鎖骨へと下りていく。肌の表面を滑る彼の唇がくすぐったく、「んっ」と鼻から甘い息が漏れてしまう。
「あの男にどこを触られた」
肌に上で喋られ、食まれているようだ。
「……っど、こも……ッ胸元に、頬ずり、され……くら、で……んぁッ……」
「頬ずりだけでも不愉快だな」
雪人の熱い吐息が肌を熟れさせていく。
「……っはぁ……ぁっ」
「千代、すべて忘れろ。俺の感触だけを覚えていれば充分だ」
当然です、と言いたかったが、喉が震えて声が上手く喋ることができない。
肌の上で、小さく濡れた音が何度か響いた。
そうして、谷間の深い部分で一際大きな音が立つと、やっと彼の顔は遠ざかっていく。酒酔いとは違う酩酊感に、千代はまだ起き上がれず、テーブルの上でくったりと脱力していた。
雪人はというと、解けたままだったドレスの胸元の紐を、真剣な表情で結び直してくれていた。思わず、ぷっと小さく噴き出してしまう。
「ふふっ、私、蝶結びをそんな真剣な顔でしている方、はじめて見ました」
大きな手が細い紐を摘まんで、細々と結ぶ様子はどこか可愛い。
雪人の目元がフッと和らいだ。
「そうか。これからは、飽きるくらい見せてやるよ」
額に軽く口づけを落とされ、優しく抱き起こされた。
床に下ろされ、テーブルに残されていたショールをグッと胸前で閉じられる。
まだ、少し酔いが残っているが、落ち着いたからか歩けないほどではない。
「千代、なんと言われようが、俺は君がいてくれたらそれで幸せだ」
「だから」と、手を差し出される。
彼の目が『行こう』と言っていた。
千代は、一度深呼吸をして雪人の手に自らの手を重ねた。
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