来てくれた
来てくれた。
安堵から気が緩み、涙腺まで緩む。我慢していた熱が、ぼろぼろと頬を伝い落ちる。
来てくれた……っ。
扉を見つめたまま固まっている勇一郎の肩に、手が掛けられたのが見えた瞬間、勇一郎は吹き飛ぶようにして千代の上から姿を消した。耳煩い派手な音がした。
まるで、紙切れが風にあおられたかのような呆気なさだ。
開いた視界の中、そこにあった者の姿に千代は抱きついた。
「ゆき……と、さん……っ」
「すまない、千代。遅くなった」
背中に回された彼の腕が、微かに震えているのがわかった。
「大丈夫です……間に合いましたから、何もされていませんから」
「良かった……っ」
絞り出すような声と息を耳元に感じた。抱き締める彼の腕がさらに一段と強まる。
ああ、この腕だ。この体温だ。この声だ。自分が求めていたのは。
テーブルの上に座ったままだった千代を、雪人が腰を抱いて丁寧におろす。足の力が上手く入らず、千代は雪人の胸にしがみついた。
「すみませ……っ、少し……強いお酒を飲まされてしまい――」
「キャアッ!」
助かったと安堵に胸をなで下ろしていたら、突如、空を裂くような甲高い悲鳴が部屋に投げ入れられた。
見れば、入り口で茜が青い顔をして口をわななかせている。
「勇一郎様!」と叫びながら、茜が床で伸びている勇一郎へと駆け寄った。勇一郎は気絶しているようで、途切れ途切れの呻き声しか聞こえない。
雪人に吹き飛ばされた時、後ろのテーブルにぶつかったのだろう。テーブルは斜めになり、掛けてあった布が床に落ちている。
「ひどいわ、お姉さま! 勇一郎さままで誘惑するだなんて!」
「……してないわ」
自分のどこを見たら、勇一郎を誘惑したと映るのだろうか。茜の目にはいったい何が見えているのか。いや、元より自分など見ていないのかもしれない。
「白々しい。元より、彼をけしかけたのはあなただろう、茜さん」
雪人の声が怒気をはらんでいた。
彼の胸元に寄せた頬から、ビリビリとした振動が伝わってくる。
「何を話していたかまでは聞こえなかったが、あなたが彼に酒を持たせ、ホールから送り出しているのを見た。直後、ホールを出ようとした俺に話しかけてきたのも、足止めのつもりだったんだろう」
「茜……が……」
彼女に嫌われているのはわかっていた。だが、まさか自分の婚約者を使ってまで襲わせようとしたとは。
「心外ですわ。私はお姉さまがふらふらと疲れた様子でホールを出て行くのが見えたので、勇一郎さまに様子を見てきてほしいと頼んだだけですよ」
「信じられるものか」
茜を見つめれば、彼女は薄ら笑いを浮かべた顔でこちらを見ていた。馬鹿にしたような、それでいて強い憎しみが込められた目に、思わず千代は息をのんだ。
(どうして……)
彼女の自分へと向ける感情は、嫌いという次元ではなかった。
はっきりと、自分は彼女に憎まれている。
(あの子の私への憎しみは、どこからきているの)
彼女に怨まれるような覚えはない。むしろ、彼女のほうが全てにおいて良い暮らしをしているのだが。父親の愛情も茜にだけ注がれている。
理由を聞こうと言葉を発しようとした時、むくっと勇一郎が身体を起こした。「いたた」と頭を撫で、気怠そうに頭を振っている。
「大丈夫ですか、勇一郎さま」
「あっ、ぁああ茜……っ!? い、いつからここに……っ」
傍らに座る茜を見て、あからさまに勇一郎は動揺していた。
婚約発表の日に、婚約者の姉に手を出そうとしたし、それが婚約者にバレたのだから動揺するのも当然だろう。
「つい先ほどですよ。それよりも、お姉さまに誘惑されたんですよね」
「え……ぁ……」
茜は心配するように、ずいっと勇一郎に顔を寄せた。
流れ落ちる髪のせいで茜の横顔は千代達から見えないが、彼女を見る勇一郎の顔は引きつっている。
「そうですよね……? 勇一郎さま?」
言葉が上手く出ない勇一郎にしびれを切らしたのだろう茜が、再度問いかけた。
まるで、『はい』と言えというように。
実際には千代は誘惑などしていないしから、勇一郎が頷けないのは当然であり、彼がどう答えるかと千代達も黙して見守っていれば、彼は腕を振り下ろすようにして千代を指さした。
「そっ、そうだ! 千代が急に僕に寄りかかって、う、腕に胸を押し付けてきてそれで……! だから、ぼっ、僕は悪くない!」
これには、千代も雪人も呆気にとられ、これでもかというほど目を見開いていた。
元々、あまり信用できた人間ではないと思っていたが、まさかこれほどまでとは。千代は、これが自分が本来夫とするはずだった者なのか、と軽い目眩を覚えていた。強い酒よりも頭がクラクラする。
しかし、呆気にとられていたのは千代だけで、雪人のほうは一瞬で呆れから怒りに感情を変えていた。
「ふざけるなよ……っ」
ボソリと頭上から聞こえた、豪雨前の雷鳴を思わせる唸るような重い声に、ハッとして千代は顔を上げた。
雪人の額に青筋が立っていた。眉は逆立ち、奥歯を噛みしめているのか、端を引きつらせた口からはギリッと軋む音が聞こえる。
こんなに怒っている雪人ははじめて見た。
抱き寄せてくれていた雪人の手が肩から外れたことに、千代は危険を察知して雪人の腰に抱きついた。
「駄目ですっ!」
雪人の足は一歩、すでに勇一郎へと踏み出されている。
『挑発されても決して乗るな。下手をすると、一乗家の会社すべて潰される羽目になるぞ』――千代の脳裏では、善路の言葉が反芻されていた。
「雪人さん、落ち着いてください!」
ここで雪人が勇一郎に手を出してしまったら、勇一郎の、茜の思うつぼだ。
面白い、続きが読みたいと思ってくだされば、ブクマや下部から★をつけていただけるととても嬉しいです。




