茜と雪人
「僕の酒がのめないのか」
まるで酔っ払いの台詞だ。いや、頬に朱が指しているし、いつも丸々と大きい目も今は半分くらいしか開いていない。
勇一郎は手にグラスを押し付けてきて、千代は受け取りたくはないが受け取るしかなかった。しかも、どうやら受け取るだけでは駄目らしく、彼はジッとこちらを眺めている。
(仕方ないわ。ひと口くらいなら……)
千代はグラスを傾け、ひと口分だけ飲む。とろりとした舌触りの後に強い甘みを感じ、酒が喉を滑り落ちると、胃の中がカッと熱くなった。
「――ッ!」
鼻孔に抜ける想像以上に強いアルコールの香りに、千代は咳き込んだ。
「ははっ、上等な酒など飲み慣れていなかったか」
勇一郎は、身体を丸めて咳き込む千代を気遣いもせず、ただ見下ろしながら自分も杯をあおっていた。
「どうだ? 平民との結婚は。苦しいんじゃないのか? 相手は実業家らしいが、銀行融資を断られる程度だろう? ハッ! 威勢が良いだけで情けない男だ」
息を整えた千代は身体を起こし、ソファの背もたれに身体を預けた。
頬や耳の先ががジンジンとする。目の奥が熱い。
酒に飲み慣れていない上、元々体質的に強くはない千代は、声を出して言い返す力も入らなくなっていた。
「なあ、千代。僕は器の大きな男だ。元婚約者が寂しがっているのなら、慰めてやることともやぶさかじゃない」
(はい?)
慰めるとはどういう意味だろうか。
千代は、ジンジンとする指先で自分の目元に触れてみたが、涙は流れていない。
では、何を慰めるというのか。
千代は傍らに立つ勇一郎を見上げた。照明の明かりを背負っており、顔に影が落ちていて表情がわかりづらい。しかし、見下ろしてくる勇一郎と微妙に目が合っていない気がした。こちらを向いているのだが、自分の顔ではなく別のところを見ている……と、そこで彼が自分の顔ではなく、広く開いた胸元を見ているのだと気付いた。
「――っも、戻ります!」
ショールをたぐり寄せて胸元を隠し、千代は勢いよくソファから立ち上がった。のだが、ぐらっと目眩がして、身体が傾いた。
不覚にも、「おっと」と腕を伸ばした勇一郎に支えられ、どうにか床に崩れ落ちずに済む。
「あ、ありがとうございます。もう大丈夫ですので、手を離して――ひっ!?」
早く離れたくて、勇一郎の腕を押しやった瞬間、首筋に生温かさを感じ、喉を震わせてしまった。何をしているのかと身体を捩って確認すれば、自分の首筋に勇一郎が顔をうずめていた。そして、千代の身体を支えていた腕は、いつの間にか支えではなく千代の身体をしっかりと抱いている。
「前からこうしてちゃんと着飾っていれば、少しは婚約者としての扱いをしてやったのに」
頬ずりをしているのか、背中にある生温かさが動いている。
「やめてっ! 離してください!」
「何を言ってるんだ。こんなふらふらで……少し休むべきだ」
嫌な予感がした。
千代の拒絶する声など無視して、勇一郎は彼女を引きずるようにして、近くにある部屋へと押し込んだのだった。
◆
千代が誰かに認められる光景は、とても嬉しいものだった。
東郷屋伯爵に引っ張って行かれる背中を見送り、雪人は自分も頑張らなければと、レオンと別れ挨拶回りに戻った。
少しでも融資に繋がりそうな人脈や情報が得られればと思ったのだが、世間はそんなに甘くないようだ。ましてや東郷屋伯爵が例外だっただけで、平民とわかるやいなや明らかな嘲笑を向けてくる者や、途端に表情を失くす者が多かった。
一方、実業家には平民も多く、互いの苦労話に会話が弾んだりするのだが、やはり融資となると話は別だった。
ホールを見渡せば、全体的に会話が一段落した空気があった。壁際に置かれたソファや椅子に座って、休憩している者達が多い。
「千代はまだ……かな」
千代が気になり辺りを見回していると、千代ではなく金髪の男がやって来た。
「どうしたんだい、雪人」
「レオン……千代を見なかったか? ホールにいないようなんだが」
「いや? 本当だ、いないみたいだね」
二人で首を伸ばして千代の姿を探すが、見当たらない。
「外に出たのかもしれない。ちょっと探してくる」
雪人はレオンにグラスを預けて、その場を離れた。
ホール扉へと向かう途中、ふと視界に勇一郎と茜の姿が映る。
何か二人だけで話したあと、茜が勇一郎にグラスを渡して手を振っていた。
勇一郎はそのままホールを出て行ってしまう。
(なんだ?)
雪人は眉をひそめた。
なぜ茜はホールを出て行こうとしていた勇一郎に、わざわざグラスを渡していたのか。その行動は不自然なように感じられた。
雪人は勇一郎の後を追おうとしたのだが、自分を呼ぶ声に足が止まった。
「お義兄さま」
自分のことを『兄』と呼ぶのは、ただひとり。
雪人は嫌な心を隠しつつ、今日の主役のひとりに笑顔で振り向いた。
「茜さん……二井様と正式なご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございます。お義兄さまが来てくださって嬉しいです」
ふふと笑う彼女の仕草や言葉だけをみれば、ただの良い義妹にしか見えないのだが、雪人は既に彼女の本性を垣間見ている。この笑顔が心からのものとは素直に思えない。
「お忙しいでしょうから、これで失礼――」
します、と茜を躱そうとしたのだが、腕を掴まれてしまう。
「お義兄さま、会社上手くいってないんでしょう?」
雪人は目を大きく見開いて、真っ赤な紅が塗られた口で微笑む茜を見下ろした。
「誰からそんな話を」
しかし、彼女はにんまりと笑みを濃くしただけで答えない。




