追いかけてきた元婚約者
「しかし、あなたが送ってきてくれていたのなら納得だ」
「伯爵、そんなに千代君の手紙は素晴らしかったんですか?」
「ああ、そうだとも。ただの挨拶状ならわんさかもらうが、彼女のはな……うん、挨拶とは別に添えられた文がな……いつも美しかったのだ。その時に彼女が目にしたものを書いてくれていたのだろう、短いながらも瑞々しい感性で書かれていて、景色が見えるようだったんだ。昔のものにはなかったから、あれは千代さんが独自に書いてくれていたんだろう」
「ああ、千代君は学生の頃も、よく本を読んでいましたからね」
「納得の感性だ。ありきたりな……大勢に向けてのものではなく、私個人への気遣いが窺えて、好きだったな。心が籠もったものをいつもありがとう」
うんうんと腕を組んで大きく頷いてくれる二人に、千代は胸の内側が熱くなり、キュウと搾られるようだった。
「そ、そのように仰っていただき……っ、感謝申し上げます」
搾られたむず痒い痛みはそのまま鼻の奥を刺激して、目にまでこみ上げてくる。溢れそうになる熱を、千代は目に力を入れて耐えた。
自分のやっていたことを、こうして覚えてくれている人がいるとは思わなかった。しかも、好きだとまで言ってもらえた。父にはただの雑用だと言われ、会社名で送っているから、自分に返事が戻ってくることはない。いつも、誰も訪ねてこない離れでひとり黙々と、部屋から見える庭を眺めながら書いていた。
もしかしたら、自分の見ている世界で、自分がこの世界に確かに存在しているということを、誰かに知ってほしかったのかもしれない。それが唯一、学校を卒業した後、自分が外界の者達と関われる機会だったから。
隣を見れば「良かったな」と雪人が微笑んでくれる。
「はいっ」と心から頷けた。
その二人の様子を、レオンも東郷屋伯爵も、若鳥の成長を見守るような表情で見つめていた。
そこで、東郷屋伯爵が「おっ、そうだ」指を弾いた。
肉厚な指からパチンッと小気味よい音が鳴る。
「千代さんは、挨拶状を送っていた相手を覚えているかな」
「え、ええもちろんですが」
見えない相手だが、何年も相手のことを想像しながら手紙を書いてきたのだ。名簿の名前はすべて覚えてしまっている。
「ハハッ! そんなに怯えなくていい。実は、あなたの挨拶状を心待ちにしている者は、私以外にもいてね。あなたを紹介したいんだ」
「そ、そんなっ、めめ、滅相も……!」
「まあまあ、気難しい老人達の会話の種になってくれ。ということで、一乗君。夫人を少々拝借するよ」
さあさあとばかりに背中には東郷屋伯爵の手が回されて、すでに足は雪人から離れていく。『どうしたら!?』と千代は雪人に目で助けを求めるが、彼は嬉しそうに「ええ、よろしくお願いします」と頭を下げていた。
「伯爵、あまりはしゃぎすぎないでくださいよ~」
「任せい!」
レオンも留める気はサラサラないようで、千代は諦めて腹をくくったのだった。
◆
やっと東郷屋伯爵の挨拶回りから解放された千代は、ほうほうの体で舞踏ホールから廊下へと出た。最初は雪人の元へと戻ろうと思ったのだが、他の者達と歓談しており、入っていくべきではないとそっと出てきたのだ。
「き、緊張したわぁ……」
雪人の評判を落とさないためにとずっと気を張っていて、ほぼ動いていないというのに、足がぷるぷるしていた。東郷屋伯爵が紹介してくれた者達は、確かに挨拶状を送っていた者達でもあったのだが、改めて実物を目の前にすると畏れ多いやらなんやら。
また、連れられた先の人が、「おおっ、それなら」とまた別の人のところに案内してくれ、挨拶が数珠つなぎに続いたのだ。ありがたいことだったのだが、精神疲労のすり減り方がすごかった。
ホールを出た先には、長い廊下が左右に伸びていた。
右は外に繋がっている様子で、千代は左――屋敷の奥へと伸びる方へと足を進めた。少し歩いた先の壁際に、休憩用だろうか、ソファが置かれている。
千代は、深緑色の縦縞の座面にどっしりと腰を下ろした。
たっぷりと綿が詰め込んであり、実に身体に優しい座り心地だ。
「ふぅ」と千代は膝に向かって息を吐く。
(それにしても、茜は本当に何もする気がないようね。まあ、当たり前かしら。自分の婚約報告の場で、騒ぎなんて起こすはずないものね)
警戒してきたのに肩透かしをくらい、千代は深読みしすぎたかと少々自分を恥じた。
廊下には今のところ自分以外の人けはない。もうしばらくは休めそうだ。
(あと少し休んだら、中に戻りましょう)
しかし、これ幸いと全身から力を抜いた瞬間、「千代」と呼ぶ声が聞こえた。
瞬間、緩んでいた背筋もピンと伸びる。
(あー……)
これが雪人の声ならば喜んでいたのだが……。
「……勇一郎様」
ホールから廊下に出てきた者は、あまり会いたくない者だった。
「こんなところで何をしてるんだ」
「慣れない靴でしたので、少し休――」
「ああ、わかったぞ。茜の友人やご婦人方に比べ、着飾ってもやはり君はパッとしないからな。一乗に放置されたんだろう、憐れな」
ヒクッと口端が引きつった。
「いえ、雪人さんはそのような考えをされる方ではな――」
「仕方ないなあ、元婚約者のよしみだ。時間潰しに僕が付き合ってやるよ」
「いえっ、結構――」
むしろ一緒にいたくない、と両手を胸の前で思い切り横に振ったのだが、相変わらず人の話を聞かない勇一郎は、その手の前にずいっとグラスを差し出してきた。
「ほら、僕が持ってきてやったんだ」
持ってきてやったというか、そういえば最初からグラスを二つ持っていた気がする。ということは、彼は偶然廊下に出てきたのではなくて、自分を追って出てきたのか。
背筋がゾワリとした。
(今更何の用があるっていうの……)
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