東郷屋伯爵
千代が家で穏やかな時間を過ごしている間、彼は懸命に戦っているのだろう。そんな彼を頼もしく思うと共に、どうかこれ以上彼に苦難を与えないでくれと願ってしまう。
「それにしても、なぜ彼は融資の件を知っていたんだ」
ボソリと呟いた雪人の言葉に、千代もハッとした。
雪人は最近融資を頼めないかと色々な人と会っている話していたが、もしかして噂が回っているのか。しかし、商業者の中で回るのならばまだしも、勇一郎まで届くとは考えられない。まだ勇一郎が清須川製糸の経営に携わっているのならわかるが……。
晩餐の席で久しぶりに見た父は、少し痩せたように思えた。実際のところは、目も合わせてくれなければ、会話もしていないのでわからないが。今はというと、ホールを動き回っているのか、中々姿が探せない。
「いや、ここで考えても答えは出ないな。今はこの場に集中するとしよう」
「はい、雪人さん」
横目を向けて微笑まれ、千代の胸の内からも、もやっとした不安は消え去った。
◆
しばらくレオンを含めた三人で、過去の思い出話に花を咲かせていたところ、「待たせたな、レオン」と言いながら体躯の良い大柄の男が近付いてきた。
レオンも、「あ、伯爵」と軽くグラスを上げている。
顎を囲むヒゲで年齢は分かりづらいが、髪やヒゲに混じる白の多さや顔に刻まれた歳月の跡からするに、父よりも随分と上の――五十半ばくらいだろうことが窺えた。
しかし、衰えた雰囲気はまったくなく堂々としており、威厳が燕尾服を纏っているようである。
「すまんな、レオン。どうにも朝から腹の虫が渋っておってなあ。収まったと思ったんだが、晩餐で食べた何かが腹の虫には合わなかったようだ」
「いや、単純に食べ過ぎだと思いますけど。あれほど食べ過ぎないようにって注意したのに、僕の分まで取ってバクバク食べるんですから……もうっ」
「やははは! すまんすまん!」
レオンが伯爵と呼んだから華族の人なのだろうが、なんというか気取っていないというか、親しみやすいというか、実に陽気な人だ。
千代も雪人も珍しい者を見る目で伯爵を眺めていた。
レオンと伯爵は視線に気付いたようで、こちらへ身体を向ける。
「ああ、ごめんごめん。伯爵、こちら僕の東京時代からの友人で、今は横濱で一乗汽船の社長をしている一乗雪人です。隣はその奥さんの千代さん。彼女は、今日の主役の清須川茜さんのお姉さんで、元僕の教え子なんです。雪人、こちらが僕の今の雇い主のひとりで、ここで嫁を見つけろって強引に連れてきてくださった東郷屋伯爵だ」
千代と雪人は伯爵に深々と頭を下げた。
「一乗汽船か。名は聞いたことあるな。最近横濱で勢いがある会社だとか……」
「恐れ入ります。若輩ながら、日々学ばせていただいているところです。伯爵のお耳に届くようになったこと、光栄の至りに存じます」
「ふむ」と伯爵は口角を上げ、豊かな顎髭を摘まむようにしながら撫でていた。
「若い内は四の五の考えず、威勢の良さで突っ走ることも時には大事だからな」
「ありがたいご教示、胸に留め置きいたします」
「して」と伯爵は、視線を雪人から千代へと横へと移動させる。
「清須川と聞いて少し気になったのだが、もしかして、清須川製糸の挨拶状を出していたのは、茜さんではなくあなただろうか?」
「えっ」と、千代は口を手で軽く塞いだ。
「はい。嫁ぐ前までは、お世話になった方々に、会社の名でお手紙を出させていただいておりましたが……」
たちまち伯爵の目元がクッと持ち上がり、「そうかそうか」と柔和な弧を描く。
「私は東郷屋公信という。盆や正月、時候の折々に届く清須川製糸からの手紙が、私の楽しみのひとつなんだよ」
「東郷屋、公信……様……って、ああ!」
千代は目をパチパチさせ、東郷屋伯爵を凝視した。
母親が倒れてから、千代が清須川製糸に関わる業務も引き継ぐことになった。
内容は、書類整理が主だったが、取引先や大事な顧客への挨拶状を送るというのも含まれていた。母は盆と正月のみ挨拶状を送っていたようだったが、千代はそれに加え誕生日がわかる者にはその月や、何か祝い事があったと風の噂で聞いた時には、加えて送っていたのだ。
そして、東郷屋伯爵も、千代が手紙を送っていた相手のひとりであった。
千代は再び腰を折った。
しかし、今度は挨拶ではなく謝罪の深さだ。
「その節は大変お世話になりました。それですのに、東郷屋様には大変不義理なことを……っ。父に代わり謝罪申し上げます」
東郷屋伯爵は、かつて清須川製糸に取引先を紹介してくれた恩人だ。
関係の端緒は祖父の代まで遡るが、祖父はそれからもずっと東郷屋伯爵に感謝していたと、母に聞いたことがある。その取引先とは今もまだ続いており、彼は清須川製糸にとっての恩人である。
しかし、父はそうは思わなかったようだ。
『確かに紹介はしてもらったが、最初だけだろう。今も取引が続いているのは私の力なのだし、恩なら父の代で充分返した。そろそろやめ時だろう』と、それまでは東郷屋伯爵の屋敷を訪ねて挨拶をしていたのに、父は足を向けなくなったのだとか。見かねた母が挨拶状だけは送り、千代がそのまま引き継いでいた。
「頭を上げなさい。あなたが謝ることではない」
ゆっくりと顔を上げた先には、微笑みをを浮かべた東郷屋伯爵がいた。
「しかし、どうして私が送り主だとわかったのでしょう。会社名でお送りしていたはずですが」
「元より会社の人間、ましてやあなたのお父上が送っているとは思っていなかったんだよ。きっと清須川夫人だろうと思っていたが、亡くなってからも届くので驚いていたんだ。だから、先ほど茜さんにその話をしてみたんだが……どうやら彼女は会社のことに関しては、何も知らないようだね」
東郷屋伯爵の声音が、僅かに曇った。声音だけでもなく口角も下がっている。
やはり、情報に敏い者には、清須川製糸の業況はとうに伝わっているのだろう。
「先ほど、反対側でチラッとお父上の姿を見たのだが、色々な者にひとりで声をかけているようだったよ。あまり、芳しくないようだったがね。それこそ、今日の主役のひとりである茜さんを連れていれば、もう少し相手も軟化すると思うのだが……やはり、彼は少々社交が苦手なようだ」
「父は、仕事に妹を関わらせることを好みませんので」
「茜さんは跡取りの奥さんだろうに」
これからは自分が担っていたことを彼女が引き継がなければならないと、父に名簿も渡していたのだが、東郷屋伯爵の言い様だと父は茜には引き継がせていなかったようだ。
父が自ら書くとも思えないし、ため息が出る。
一方、東郷屋伯爵はマジマジと千代の顔を見ると、「うん」と嬉しそうに頷いた。
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