目立つ平民
声がした方へと顔を向ければ、声と同じく明るい髪色をした男が手を振りながら駆けてきた。雪人よりもまだ背が高く、駆けるたびに揺れる髪色は金。
「レオン!」
「レオン先生!?」
雪人と千代の驚嘆した声が重なった。
「レオン先生……って、ああ! 千代君じゃないか!」
レオンは雪人の隣にいる千代の顔をマジマジと見ると、パッと花が咲くように顔をほころばせた。
「二人お揃いだなんてどうして……」と、首を傾げたレオンだったが、何やら勘が働いたようで「はは~ん」とニヤついて、名探偵ばりに顎を指でなぞっていた。
「雪人、やっぱり君のあの時の様子って――」
「チッ……うるさい、黙ってろ」
「友達なのにヒドイ言い様だ!」
そういえば、この二人は知り合いだったか。
「先生、あの頃はとてもお世話になりました。実は不思議なご縁で、一乗家に嫁いだんです」
「そう、何か不便はしてない? 雪人はちゃんと優しくしてくれてる?」
「まったくです。毎日が幸せで、雪人さんもとても優しくて」
「それは良かった。卒業した後もずっと気になっててね。君が幸せでいてくれて、僕はうれしいよ」
レオンは本当に嬉しいとばかりに、青い瞳が綺麗な目を細めていた。
「それにしても、あんだけ女嫌いだった君がねえ……」
対して、雪人には物言いたげな目を向け、「うるさい」とへの字口の雪人に一喝をもらっていた。
こんな邪険な雪人はなんだか新鮮だ。普段は紳士的だし、優しいのに。
雪人の新たな一面を見られて得した気分だった。ふっ、と笑みが漏れる。
「それで、なんでレオンが東京にいるんだ。戻ったのか? それに二井家と清須川家の婚約披露になぜ……」
「そうそう、少し前に女学校の教師は辞めて東京に戻ってね。今は、いくつかの華族家で家庭教師をしてるんだ。やっぱり僕も、学ぶ気がある子に教えたいなって思って」
千代君のように、とレオンは千代の頭を撫でた。
頑張っていたと褒められたようで嬉しい。
「じゃあ、なんの接点が?」
「接点ってより、雇い主のひとりが僕を連れてきたがってさあ。どうやら、僕に将来の妻を探してあげたいみたいなんだ。僕にだって好みはあるっていうのにね」
「で、その雇い主は?」
「腹を押さえて花畑に行っているよ」
レオンはやれやれと苦笑と浮かべ、肩をすくめていた。
相変わらず茶目っ気のある先生だ。この明るさに、当時も救われていた思い出がある。
「雪人、今でも建築は好きかい?」
「ああ。だが、忙しくて新しい本を読む時間もなくてな。昔のあの本を手元に置いて、時々息抜きに開くくらいさ。あとは、時に散歩がてら建物を見て回ったり……」
「まあ、そうだよね、社長さんだもん。そうそう、僕の教え先にさ、君と気が合いそうな――」
「やあ、楽しんでくれているかな、一乗さん」
歓談する二人の間に、歓迎できない第三者の声が差し込まれた。
温かな空気に、千代の身体のこわばりも緊張もやっと溶けたというのに、再び緊張が走る。
声だけで相手が誰だかわかった。それは雪人も同じだったようだ。
「この度は、婚約披露おめでとうございます。招待いただき誠にありがとうございます」
雪人は勇一郎の視線から千代を隠すように、一歩進み出て言った。
にこやかな顔をしているが、雪人の周りには寒々しい空気が漂っている。それでもさすが社交慣れしている雪人は、勇一郎と――端から見る分には――気さくに会話していた。
勇一郎に未練などひとつもないのだが、やはり、顔を合わせると何を言われるかわかったものではなく、千代はできれば避けたかった。
どうやら、茜は一緒のようではなく、挨拶も一段落して個別に親しい者達の間を回っているようだった。
挨拶だけして、早く他の人のところへ行ってくれればと願っていたのだが。
「へえ、これが茜さんのお姉さんなんだ」
数人の若い男が、雪人の後ろにいた千代を見つけ、興味が滲んだ声を上げた。勇一郎と同じ年頃の男達だ。おそらく、彼の学友か何かなのだろう。
「茜の姉の千代と申します。妹がお世話になっております」
雪人の恥じになってはいけないと、千代は胸を張り緊張を隠しながら楚々と挨拶をする。
「茜さんも綺麗だったがお姉さんも中々……あちらが薔薇ならこちらは百合といったところかな」
上から下まで品定めするような視線に晒され萎縮していると、グッと肩を抱かれ引き寄せられた。
「夫の一乗雪人です。横濱で一乗汽船という海運会社をやっておりまして、以後、お見知りおきいただけますと幸いです」
会社をやっているということで、男達の興味が雪人へ向き、千代は密かに安堵の息を吐く。
「若いのに会社を……大変だねえ」
しかし、あまり好意的な興味ではないようだ。揶揄ともとれる言葉だ。
勇一郎もだが、未だに華族の中には労働は恥だと思う者達がいる。彼らは国からの金禄公債や不動産、貴族院議員の収入――汗水を垂らさずに生きることが一番と考えているのだから。
ただ近頃は金禄公債の額が減り、華族といっても裕福とは言いづらい家も増え、金銭援助を目的に士族の家に嫁がせる家もあるが。二井家のように。
「千代さんの嫁ぎ先ってことは、君も士族かい?」
その瞬間、その場にいた全員に聞こえる、大きな吹き出しが勇一郎の口から発せられた。
「ぶははっ! 井野君、間違えちゃ士族家の皆さんに失礼だよ。彼はただの平民なんだからさ」
勇一郎はわざと『平民』の部分の声を張って言った。
おかげで、千代達の周囲にまで声が届き、ざわっと空気が変質した。雪人に好意的な視線を向けていた女達も、一気に見下したような目を向けてくる。
「最近じゃ、銀行融資を断られたみたいでねえ……本当、僕達と違ってあくせく働いてるみたいだよ。大変だよな」
(こんな場に雪人さんを連れてきたくなかった……っ)
自分と結婚したばかりに、と千代は唇を噛んだ。
しかし――。
「経営に波はつきものですから。ですが、ありがたいことに皆さんに助けていただき、なんとかやれております。人に恵まれました」と、雪人はにこやかに返していた。
場が水を打ったように静まり返る。
「ぁ……」と華族の男達は顔を見合わせ「あはは」と渇いた笑いを漏らした。
「そ、そうかい、それは何よりだ」
「こ、今後とも是非頑張っていってくれ」
「では」と、男達は逃げるようにして、ホールの雑踏へとあっという間に消えていった。
残ったのは、視線を逸らし、下げた口角を痙攣させる勇一郎のみだったが。
「他にも挨拶回りをしなければならないものでね、しっ、失礼」
勇一郎は雪人の顔を見ることもなく、背を向けて足早に去って行った。
ほっと息が漏れる。
「ごめんね、雪人。何も言ってやれなかった……っ」
すると、息を殺していたレオンが、しょんぼりとした顔で雪人の肩を叩いた。その顔は実に悔しそうだ。こんな顔、学校にいた頃は見たことがない。
「気にするな、こんなの日常茶飯事だ。それにお前は誰かの付き添いで来てるんだろう。下手に首を突っ込んだら、その人に迷惑がかかる」
「あ~もう~、本当君は昔から余計な事ばっかり気にして」
「余計なことすら気にしないと、後ろ盾のない者はあっという間に潰されるからな」
シクシクと口で泣き真似しながら、レオンは雪人の肩を何度も叩いていた。




