「い……っ!?」
「……お仕事、大丈夫ですか。何か、私に手伝えることはありませんか」
近頃は雪人が家で仕事をする時間がなくなり、書類整理を手伝うこともなくなった。
代わりに、こうして彼は会社での残業の日々だ。
彼が倒れてしまわないかあまりにも心配で、でも身を案じることしかできない自分がもどかしく、胸が搾られるように痛かった。
雪人がいなくなる――考えただけで鼻の奥がツンと痛くなり、涙がこみ上げてくる。
涙がこぼれないように目に力を入れ、しかし、不安だとばかりに眉を垂らして口を引き結んぶ千代を見て、雪人は目を瞬かせた。
そして、表情を一転、ほころばせる。
「ありがとう。でも、千代は家で今までと変わらず過ごしていてほしいな。君が家で待っていてくれることが、俺の頑張る理由になるから」
頬を撫でる雪人の手に、千代は「でも」と猫のように顔を擦り付けた。
「……そうだな。今まで仕事を手伝ってもらっていたのに、突然何も言わずじゃ不安になるよな」
そう言って雪人は「実は」と、突然理由も分からず融資取り消しされ、代替策に奔走しているという話をしてくれた。
ベッドの縁に並んで座り、話を聞き終えた千代は、忙しくしている理由がわかっても、まったく安心はできなかった。
「安心してくれ。生活が急に悪化したりはしないから」
「そんなこと心配してませんっ。私は雪人さんの身体が一番心配なんです」
清須川家も会社を経営していた。
直接経営に絡んでいたわけではないが、それでも経営者がどれほどの責任を負っているのかは、仕事を手伝っていた千代にもわかるつもりだ。
千代は、雪人の下瞼を親指でそっと撫でた。
千代の手に雪人が手を重ねる。
「代理で融資を申し込んでいた二行にも、どういうわけか融資を断られてしまった。無理をすれば自力で会社を立ち上げられないこともないが、そうすると今の事業規模をしばらく縮小させなければならなくなる。だが、俺は横濱の地で一緒にやって来た仲間の首を切りたくはない」
「はい」
「それで、最近は知り合いや紹介してもらった人に会って、融資してもらえないかって頼んで回っていたんだ」
雪人は親指と人差し指で輪っかを作り、口元で酒を飲むようにちょこちょこと傾けた。
「お疲れ様です、雪人さん」
彼は平民だ。
千代は階級などまったく気にしないのだが、父や茜を見ていると、世の中自分のような者ばかりではないと知らされる。雪人は笑いながら「高い酒が呑める良い口実だ」と言っているが、そんなに楽しいものばかりのはずがない。
華族や士族の者達は、矜持が高い者が多い。
国は四民平等を謳うが、明確な差が依然として残っているのだ。何せ、罪を犯したときの処罰の重さすら違うのだから、何が平等なのかと思う。
平民の上に若い雪人が会社を盛立てているのを、面白く思わない人達もいるだろう。
(彼の力になりたいわ)
雪人は、家で待っているだけで充分と言ってくれたが、自分にできることは何かないだろうか。
千代が考え込んでいると、ベッドが軋み、手から雪人の体温が離れた。
ベッドから立ち上がった雪人が、千代の頭を撫で、額に口づけを落とす。
「さっ、もう寝なさい。君の可愛い顔にクマなんて作ってほしくないからね」
「かわ……っ」
以前からも彼は時折自分を可愛いと言うことがあったが、以前はうっかりというような感じだったのに対し、気持ちが通じ合ってからは、躊躇いなく言ってくることが増えた。
視線も触れる手も言葉も表情も、すべてが甘いのだ。
今この時だとて、目元を柔らかくして、ふわふわとした温かな笑みでこちらを見つめてくる。
「お休み、千代」
踵を返し、私室へと戻ろうとする雪人。
その腕を、千代は咄嗟に掴んで叫んだ。
「あのっ!」
「ん?」と、振り返った雪人は目を瞬かせている。
「ぃい……」
「い?」
錦鯉のように顔を赤くして、口をパクパクさせる千代に、雪人の首が傾ぐ。
そして……。
「い……! いっ、一緒に寝ませんか!」
「ぃいッ!?」
◆
横濱正金銀行から融資取り消しされてから、雪人の日々はめまぐるしく過ぎていった。
さらに、別の銀行に申し込んでいた融資までも不可という返事が返ってきた。
理由はまた、言えないというものだった。
何かがおかしい。
何が起こっているというのか。
今後の会社の運営を考え直さなければならない上に、さらに考えなければならないことが増えて、肉体よりも精神的な疲れのほうが大きかった。
何より、千代と満足に会話もできないでいた。
彼女と触れあえるのは、朝の見送りまでの僅かな時間のみで正直足りない。
せっかくこれからは一緒だと思っていた寝室も、帰宅時間が遅くなってからは自分の寝室で寝るようにしていた。深夜の物音で彼女を起こすのは忍びなかった。
それでもやはり、ひと目でも千代の顔を見たくて、密かに寝室を訪ねて彼女の寝顔を眺めては、疲れを癒やす日々を繰り返していた。
今夜も、寝顔を見てから寝ようと、寝室を訪ねただけだったのだが……。
「こうやって並んで寝るのは久しぶりですね」
「ああ」
「やっぱり、雪人さんと一緒だと、とっても温かいです」
「それは良かった」
などと、雪人は冷静に返しているが、その実、緊張と興奮で今にも心臓が飛びでそうだった。
二人は夫婦の寝室で、一緒の布団に入っていた。
『い……! いっ、一緒に寝ませんか!』
という、千代からの予想外の誘いを受け了承したはいいが、隣で嬉しそうに笑う妻が可愛すぎて、雪人は了承したことを既に後悔していた。
千代はこちらを向いて、じっと顔を覗き込んでくる。
同じように横を向いて向かい合うと、布団の膨らみに傾斜ができ、彼女の身体の小ささを意識させられる。
正直、抱きたい。
しかし、時間も遅いし彼女をゆっくり休ませたいという思いもある。
この間ので、彼女と自分とを同じに考えては駄目だとわかった。
彼女の体力は、子兎程度にしかない。
自分の『少し』が、彼女には『大いに』になってしまうのだ。
実際、少し無理をさせたと思っていた前回は、後でミツヨから千代は昼まで目覚めなかったと聞いて、少しではなく大いに無理させたのだと気付いて反省したものだ。
(ここは我慢だ、我慢……っ)
一度した後だと我慢するのがここまで苦痛になるとは、思いもよらなかった。
雪人は「はぁ」と薄く息を吐くと、目を閉じて視覚情報を遮断した。
ひとまず、身体を落ち着かせることに集中する。
しかし、頭にやわらかな感触を覚え、驚いてパチッと目を開いてしまった。
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