招待状
やはり八百屋に彼女の姿はなく、千代は辺りをキョロキョロと探す。すると、少し離れた木の下に、見覚えのある短髪の女が立っていた。こちらに背を向けていたが、着物の柄と肩口で切り揃えられた髪型からするに、彼女で間違いない。
「ナリさん」と、呼びかけながら駆け寄ろうとして、千代はピタッと足を止めた。
彼女の奥にもうひとり、誰かいるようだ。
ナリの身体に隠れてハッキリと姿は見えないが、チラッと見える着物や籠から、同じくどこかの家の女中なのだろう。遠目からでも、身振りなどで談笑している様子が窺えた。
千代は邪魔しちゃ悪いと一旦その場を離れようとしたのだが、ちょうど相手が去って行くのが見えた。
「ナリさん」と声を掛けると、彼女は振り向いて「あっ」と手を振った。
「すみません、お待たせしてしまいました」
「いえ、私もちょうど今来たばかりだから……お友達?」
遠ざかる女中の背中を指さして尋ねる。
「そうです。買い物でよく会うようになってなんか意気投合しちゃって、会えば喋る仲ですね」
「ああ、以前そんなこと言ってたわね」
奉公家に妹をいじめる姉がいるとかいないとか、そんな感じ立ったと思う。
千代は雑踏にまぎれ、すでに姿はただの点となってしまった女中を見つめた。
(あの姿、見覚えがあるような……勘違いかしら?)
「ねえ、ナリさん。あの方、どこのお家の女中さん?」
「それはわかりません」
「えっ、何度も会ってるのに?」
「お互いの奉公先って、あたし達の間じゃ言わないのが暗黙の了解なんですよ」
肩をすくめるナリに、千代は首を傾げて『どうして』と尋ねる。
「ほら、女三人寄れば姦しいって言うじゃないですか。やっぱり女中が集まってする話って、どうしても勤め先の愚痴っていうか……だから勤め先がわかると、必然的に誰のことを言ってたのか分かっちゃうんで、皆言わないし聞かないんですよ」
なるほど。そこは一応、奉公先の体面を守ってくれているのか。
下手をすると、他家の主人に愚痴の話が伝わったりするし、そうなると誰が言ったと、回り回って女中が罰せられることになるし。
「じゃあ、私もナリさん達の愚痴の種にならないように気を付けなきゃだわ」
ツンと鼻先を上向け、千代は冗談で言ったつもりだったのだが……。
「安心してください。うちは愚痴じゃなくて、自慢ばっかりしてますから。さっきだって、『近頃帰るのが遅い旦那様を奥様が起きて待っていただけで、君が心配だからって怒ったくらい旦那様の愛が重い』って、話してたんですよ」
「そ、それはそれで恥ずかしいからぁ……っ」
真面目な顔で返され、こちらが撃沈してしまう。
ケラケラと笑ってどうだとばかりに胸を張るナリの姿は、一番大きな沢ガニを捕まえたと威張る子供のように無邪気で、千代も思わず吹きだしてしまったのだった。
◆
夜。いつもなら就寝している時間だが、千代は自室の椅子に座って悩んでいた。
手には昼間茜に渡された手紙。封はまだ開けていない。
封筒には切手が貼ってあるから、もしかすると、茜は郵便を出しに来ていたのかもしれない。いつもなら女中に頼んでただろうに、珍しいことだ。
それか、他に用事があったついでなのかもしれない。
それこそ、勇一郎と会う予定だっとか。
「はぁ……」
もう何も思い出したくない。妹のことも、元婚約者のことも。
まだ、雪人は帰ってきていない。屋敷の中はしんとしているが、きっとミツヨかナリが起きて、彼の帰りを待っているはずだ。
「やっぱり、この手紙は雪人さんに渡すべきよね……」
茜は「お義兄さまと」と言っていたし、一乗家に対する招待状であれば無視という選択肢はない。
千代は鬱々としたため息を吐きながら、机に砂山が崩れるようにズルズルと突っ伏した。
名前を呼ばれた気がして、千代は瞼を上げた。
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
身体を起こし、聞き間違いかと思って耳を澄ましていれば、隣の寝室で微かな物音と、「千代?」と自分を探す雪人の声がした。
千代は跳ねるように椅子から腰を上げると、部屋の中を走り、自室と寝室とを繋ぐドアを勢いよく開けた。
「雪人さんっ」
ベッドの傍らにいた寝間着姿の雪人が、驚いたように振り向いた。
雪人の顔を見た瞬間、千代の心を曇らせていた陰雲が晴れ、ほっとした温かな安堵に満たされる。
「良かった、ベッドにいなかったから心配した。それより、まだ起きてたのか。駄目じゃないか、身体を壊すぞ」
心配そうに近寄ってくる雪人に、千代は「ごめんなさい」と謝りつつも、その顔は実ににこやかだ。
しかし、「あ」とすぐに手に握ったままにしていたものを思い出す。
「実は、雪人さんに相談したいことがありまして……」
よれてしまっていた手紙の皺を手でのばし、雪人へと差し出した。
「これは?」
「今日、偶然町で茜と会って、その際に渡されました。私と雪人さんにと。一緒に来てほしいと言って」
茜の名前が出た途端、明らかに雪人の顔が不愉快だとばかりに歪む。
彼は手早く封を破り、入っていた手紙に早速に目を通していた。そうして、目線が便箋の左下へとたどり着くと同時に、眉間の皺を深めて嘆息と言えるほどの大きな深呼吸をしていた。
「なんの招待状だったんですか」
「……茜さんと二井勇一郎の、婚約披露を兼ねた舞踏会を開くそうだ」
行きたくない、と咄嗟に思ってしまった。
雪人の手紙を見る曇り顔からするに、どうやら彼も同じ思いのようだ。
「来てほしい、ね。絶対、好意的なものだとは思えないんだよな」
「どうしましょう。親族なので出たほうが良いのはわかるんですが……雪人さんは忙しいという理由で、私ひとりだけで出席しましょうか」
実際に彼は今とても忙しいのだし。
「いや、君をひとりで行かせるほうが危ない。茜さんがいるんだ。何をされるかわかったものじゃない」
「でも……」
壁の時計を見れば、もう十一時を回っていた。
(毎日こんな時間まで……)
「それに、彼女は俺と千代でって言ってきたんだろう。だったら、素直に二人で出よう。正式に招待されて行くんだ、二人なら変なこともしてこないさ」
「わかりました」
「二週間後か……」と、悩ましそうに前髪を掻き上げ、手紙を睨む彼の目の下にはクマが浮かんでいた。




