これが私の妹?
雪人が難しい顔をして善路の部屋に現れた日から、再び二人の寝室は別になってしまった。
仕事から帰ってくるのも夜が更けてからの日が増え、帰ってからもしばらくは私室で仕事をしているようだ。おかげで、朝見送ったら翌朝まで雪人に会えないという、寂しい日々を千代は過ごしていた。
「一度、雪人さんが帰ってくるまで、起きて待っていたことがあるんだけど、少し怒られちゃって。心配で余計仕事が手につかなくなるからって」
「未だにその台詞が雪人様の口から出たものだなんて、信じらんないですねえ。ま、それだけ奥様への愛が大きいってことでしょうけど――あっ、あそこの八百屋に行きましょう。あそこの店主、よくおまけしてくれるんですよ」
「あっ、ちょっと待って、ナリさん……!」
急に直角に方向転換したナリに、千代も慌てて進路を変える。
千代は今、ナリと一緒に商店街へと夕食の買い物に来ていた。
昼食の時に、ポソッと「夜まで暇だわ」なんて呟いたら、ナリが「だったら一緒に買い物に行きます?」と誘ってくれたのだ。
書斎の片付けと読書で日々を過ごすのも、いくら読書好きを自負している千代でも、時には飽きるというもの。ミツヨも桂子も屋敷に籠もりっぱなしは身体に悪いからと、快く送り出してくれた。
以前ほど、彼女達の手伝いをするのを遠慮されなくなったと思う。
現に今日は、二人で行くのなら、とミツヨに買い物籠と覚え書きまで渡された。
普通ならば、使用人が主人に向かってと怒るべきことなのだろうが、千代は、彼女達が奥様ではなく千代個人として接してくれている気がして、むしろ嬉しかった。
清須川家では、女中とは主従関係以前の問題だったのだし。
「おっ、なんかあっちで催しやってますね。後で一緒に冷やかしに行きましょうよ。ねっ、奥様」
遠慮などまったくないナリの態度に、千代はふふっと、くすぐったそうに肩を揺らした。
女学生時代でも、心を許せるような友人はできなかったというのに、今になって友人といえる者が、しかも嫁ぎ先でできるとは。人生、何があるかわからないものだ。
「ええ、お使いが終わったら覗いてみましょう。私はあっちにあるお花屋さんに行ってくるから、ナリさんは野菜をお願い」
「りょーかいでーす。魚屋は少し離れてるんで、合流して最後に行きましょう」
千代達は二手に分かれ、それぞれ目的の店へと向かった。
さすがに花屋でも、冬は色彩は控えめである。
一乗家には玄関や廊下、各部屋に季節の花が生けてある。桂子が担当しているようで、前の花が枯れそうだからと頼まれた。花の種類はなんでも良いと言っていたが、生けるのにちょうど良い花が数えるほどしかなかった。
「南天、福寿草、松……って、これじゃお正月になっちゃうわ。他には、水仙と……」
店先に並べられた花々を端から眺めていく中で、キワッと赤く色づいた椿に目を惹かれた。ちょうど赤だけでなく白もある。
「これにしましょ。うん、単色でも紅白でも、桂子さんなら綺麗に飾ってくれるわ」
椿はまだ三分咲きといったところで、長く楽しめるだろう。
「すみません、この椿を――」
「あらぁ、お姉さま。偶然」
お願いします、と店主を呼び止めようとした声に、実になじみ深い女の声が被さった。声音もそうだが、自分を『姉』とする者はひとりしかいない。
「あ……茜……」
紅白の椿から、声のした方へと顔を向けれれば、案の定そこにいたのは笑顔で手を振る茜だった。キワッと目を惹く化学染料で染め上げられた、紫地に流行りの緑とオレンジなどの鮮やかな椿柄が美しい着物姿。清須川家の窮状を知っている千代からしたら、眉をひそめたくなるものである。
千代は二の句を継げずにいた。
以前までならば、「あら、奇遇ね」と再会を喜べたのだが、すべてを知った後ではどのような顔をすればいいのかすらわからない。
むしろ、今や会いたくない相手である。
茜は、千代の顔色から色々と察したのだろう。
「ふーん」と口先を尖らせると、一瞬のうちに顔から笑みを消した。
「お義兄さま、お姉さまに話したんだ。てっきり、隠したままにするかと思ってたけど……」
「本当……なのね、茜」
雪人の話を疑ったりはしていない。茜なら、と妙な納得感を覚えもした。
それでもやはり、本人の口から肯定ととれることを言われると、臓腑に重石が乗ったような感覚に襲われた。
千代はグッと瞼を閉じると小さく頭を振り、昔のように「どうして」と情けを見せそうになる自分を追い出す。
「茜、一乗家の皆さんに謝りなさい」
次に茜を見つめた千代の目は、強い怒りに満ちていた。「へえ」と茜が意外そうな顔をする。
「私のことが嫌いでもいい。だけど、あなたが私の名を騙って嘘を流したことで、雪人さんもお義父様も嫌な思いをしたの。それに対しては謝ってちょうだい」
「んふふ、お姉さまったら『自分はいいから』だなんて、相変わらず自己犠牲大好きなんですねえ」
「なっ……!?」
「そんな犠牲とも呼べない程度の自己犠牲、自分に酔ってるだけですよう」
言葉が出なかった。
時折、言葉の端々で心の弱い部分を鋭く刺す子だった。
しかし、それすらも手加減していたのだと知る。
本当は、あの頃と――まだ仲の良い姉妹だと思えていた頃と――変わらぬこれほどに愛らしい笑顔で、真っ黒な悪意のみの言葉を言える子だったのだ。
「ねえ、自分は不遇だと思ってました? 不幸だと嘆きながらあの離れで過ごしてたんですか? うふふ、相変わらずおめでたい頭してますねえ。ばっかみたい。あんな程度、不幸にも不遇にも入らないのに」
茜が一歩、また一歩と近付いてくる。
「そうそう、お姉さまったら、お母さまが死んだ時も、この世で自分が一番つらいみたいな顔してましたよね」
思わず、千代の足もズッと後退してしまう。
どうして、ここまで堂々としていられるのか。
どうして、大好きだと言った姉を笑顔で刺せるのか。
いつから彼女は、自分のことをこれほどまでに嫌っていたのか。
茜は千代の手を取り、以前のような姉妹の距離で腕を絡めた。端から見れば、ただの仲良しの姉妹にしか見えないだろう。
茜は笑顔はそのままで、千代にしか聞こえない大きさの声で言った。
「甘いんだよ、ゴミ女が。反吐が出る」
「――っ!」
これは、本当に自分の知っている妹なのだろうか。
「あたし、お姉さまのその、自分には何もないって思いながら、花畑で座りこんでるみたいなの、虫唾が走るほど大嫌いなんですよ。家も食べ物もあって、まともな母親もいたくせに。ああ……だからお父さまからも、ゴミのように離れに捨てられたままだったんじゃないんですかあ?」
至近距離で見つめられる彼女の目は笑っているのに、光りの差し込まぬ古井戸の底のような、えも言われぬ恐怖と狂気が滲んでいる。
自分は今、誰と喋っているのだろうか。
いや、ナニと喋っているのか。
掴まれていた手に、無理矢理何かを握らされた。クシャリと渇いた音がした。
「はいっ、お姉さま。絶対にお義兄さまと来てくださいね」
よく知る愛らしい笑みを最後にニコッと浮べ、茜は千代の傍らを颯爽と通り過ぎていった。
手に握らされたものを見れば、『招待状』と書かれた手紙だった。
濃く甘い、いつまでも鼻にまとわりつくような香水の残り香。
千代は顔を顰めた。
手紙を握る手は震えていた。
椿の花も買い終えた千代は、急いで八百屋へと来た道を戻る。
「きっと、ナリさんはもう買い終えてるわよね。待たせちゃったわ」




