蔓延る悪意
去って行く千代の背中を、雪人は見えなくなるまで心許なげな目で追っていた。
その様子を、善路がじっと窺っていた。
「……何かあったのか」
善路の声に振り向いた雪人は、眉間に皺を寄せ躊躇うように口を開いた。
「横濱正金銀行の融資が、なくなりました」
「なんだと」
善路は声こそ荒げなかったものの、その顔は『あり得ない』と怪訝に歪んでいる。
「理由は?」
雪人は頭を横に振った。
「知らせを受けて、すぐに正金銀行を訪ねましたよ。ですが、『総合的に判断して』の一点張りです」
「保険会社設立のための融資だったか」
「ええ」
保険会社を設立するには、大蔵省による審査、許可が必要である。
そこの審査項目に資本金というものがある。会社の支払余力に直結するもので、下限値が決められている。今の一乗家が持つ全会社の収益をもってすれば、資本金を揃えられなくもないのだが、そうすると現状の事業資金が手薄になってしまう。その薄くなった部分を補填するために、一時的に横濱正金銀行に融資を申し込んでいたのだ。
当初、銀行はなんの問題もなく融資は行われると言っていた。
しかし、融資に必要な書類を集めている間に、掌を返された。取り付く島もなかった。
「確かに、少額とは言えない融資額ではあったが……だが、一乗の財務状況を知っているのなら、断るという判断は馬鹿だろう」
「馬鹿がいたんでしょうね。ですので、すぐに第二と七十四銀行に融資の申し入れをしました」
「ああ、妥当だ。だが、その二行では単独融資には耐えられないだろうな。いや、二行合わせても、おそらく想定していた融資額を得るのは不可能だろうな」
その二行は、横濱正金銀行のような国際的な貿易銀行ではなく、地域の日常経済に沿って作られた中小銀行である。大口融資を引き受けられる体力がまったく違う。
先ほどまで笑い声が響いていたとは思えぬほど、部屋には重苦しい空気が満ちていた。
「……私が手を貸すか?」
「ご隠居の仕事は隠居することですよ。会社は俺に任せて、耄碌していてください」
「何を、この小僧がっ」と腰を上げかけた善路を、雪人が「それに」と強めの語気で押しとどめる。
「……それに、どうにも裏がありそうなんですよ」
融資取り消しの件は、すぐに全社員にも伝えた。
下手をしたら、大きな経営方針転換を余儀なくされるものだからだ。
納得できない、銀行に押しかけようと騒ぐ社員達を説得して抑えたのだが、その中で誰かが「もしかして、社長の奥さんの噂が銀行に伝わって……」と呟いたのだ。その呟きの意味を知っている者は限られていたが、それでも「なぜそこで奥さんの名が」や「ああ、あの噂なら確かに」やらと、無駄に千代へと話題の矛先が向いてしまった。
場にいた忠臣が「事業と社長の身内に関係があるはずないだろ」と、険のある声で制し、自分も「妻のくだらない噂を耳にした者もいるだろうが、まったくのでっちあげだ。信じる信じないは各々に任せるが、妻を愚弄する者は会社を辞めてもらってもいい」と言えば、ぼそぼそ言っていた者達は気まずそうに顔を逸らして口を噤んだ。
その後、無闇に根拠のない噂を広めるなと、忠臣が社員を捕まえて説教していた。
忠臣は自分の秘書という立場でありながら単独で動くこともあり、その特殊性から社員達からは一目置かれた存在だ。
社長ではあるが、千代の身内である自分が言う言葉よりも、他人である忠臣の言葉のほうがまだ、社員達は素直に受け入れられるようだった。
当然、雪人や忠臣は、融資取り消しは千代の噂のせいだとは思っていない。
さすがに銀行も、融資相手会社の社長夫人の交友関係が本当に派手だろうが、そんなものを可否の判断材料にはしない。
しかし、そこで『済んだこと』と記憶の片隅に追いやっていた者の姿が、不意に浮上したのだ。
まさか、これも彼女が……と思った。
現実的に考えて、ただの女学生が銀行の融資案件をどうこうできるはずがない。
それ以前に、こちらが銀行に融資を申し入れている状況を、知ることなどできないはずだ。しかし、再びここでも千代の噂が囁かれる事態になったことは、何かしらの関係があるのでは、という意識がちらつく。
「とにかく、この件は俺がなんとかします。今は俺が代表なんですから。ただ……」
最悪、起業のほうは時間をかければ銀行融資を入れずとも、どうにかできる。
「もし、千代に火の粉がふり掛かるようなことがあれば、その時はお願いします」
「当然だ」
千代さえ、毎日笑って幸せであってくれれば良い。
◆
真金町の隅に構えられた豪奢な料亭の一室で、親子ほどに年の離れた男女が睦みあっていた。
男は壮年も終わりかけで、黒髪の半分はもう白いものが混じっており、相手は大人びた化粧をしているが、身体の成熟具合からみて、まだ二十歳にもなっていないような娘だった。
全室個室というこの料亭は、美味しい料理に舌鼓をうつ場だけでなく、よく企業の商談に使用されたり、娼妓との待ち合わせ場所、はたまた秘さねばならぬ男女の逢瀬の隠れ宿としての側面も、持ち合わせている。
「あっは! あたしのお願い聞いてくれたんですねえ、嬉しいっ」
「――っこれで、あの横領の件は黙っていて……くれ、るんだな……っ」
「まだ、だめですよぉ」
「なっ! 約束と違うじゃないか――っぐ!」
男の上に跨がって腰を揺らしていた女が、一際強く腰を落とした。男が仰け反る。畳に敷かれた清潔そうな敷き布団は、白い敷布がぐしゃりと乱れており、二人の激しさを物語っている。
「林さまのところだけじゃなくて、横濱にある銀行全部ですよ。ちゃぁんと全行に、一乗汽船からの融資の依頼は一切断るように言っといてくれないと」
「他行のことなど口出しできるわけ……っ」
「あらぁ、よく色んな銀行のお偉いさま達が集まって、お遊びになってるじゃないですか…………知ってるんですよ、色々と」
「なぜ、ただの女学生ごときがそんなことを知っている……っ」
「秘密です」
男は、ふふと無邪気に笑う女に、快楽ではなく口惜しさで顔を歪めた。
「横領のお話、新聞社に売ったら、いくらくらいお小遣いもらえるんだろう……ちょうど、ほしい着物があったんですよねえ」
「わかった」と男は呟いた。
「他の銀行も……手を回す。だから、誰から聞いたか教えてほしい。横領の話はもう十年も前の話――」
「やったぁ! 大好きです、林さまぁ!」
「――っ!」
女は男の言葉には耳を傾けずに、男に抱きついた。
「わかってますよね……? 裏切ったら、平穏な日々はなくなるって」
耳元で囁かれた可愛い声とは裏腹な言葉に、男は背筋に寒いものを覚える。首に絡みつく腕は、掴んだらポッキリ折れてしまいそうなほど華奢だというのに、鎖が絡みついたようにずっしりと重かった。
「……あたしを邪魔する奴は誰であっても許さないわ。あの女が不幸に泣いて泥水をすするまで、諦めるわけないのよ」
ボソリと呟いた声は、茫然自失となった男の耳には届かなかった。
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