幸せな日常
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「あぁ、やらかしちゃったわ……」
千代は読んでいた本で、熱くなった顔を覆った。
書斎は静かで、独り言でも己の耳には大きな声で聞こえ、改めてやってしまったと後悔の念に苛まれる。
「お昼まで寝過ごすだなんて……ナリさんも起こしてくれたら良かったのに」
いや、彼女のせいではない。自分がすべて悪いのだ。
いつもは彼女達が起きて台所に入った頃合いに起き出すのだが、今日は目覚めた時、太陽は燦々と中天で輝いていた。
慌てて支度をして階下に向かったら、女中の三人は笑顔で「あらあら、おはようございます」と言って、責めずにむしろ「お腹空いてますよね」と美味しそうな昼食を出してくれた。
何がなんだかしばらく混乱していたが、彼女達の笑みがニコニコではなくニヤニヤと生温かいものだと気付いて、理解してしまった。
「~~っ絶対、ミツヨさん達はわかってるわよね」
寝坊した理由を。
彼女達は、あえて起こしに来なかったのだ。
「恥ずかしい……っ」
起きたら、隣で寝ていたはずの雪人もいなかった。
ミツヨに聞けば、既に会社に行ったという当然の答えが返ってきた。
昨晩、あれだけ動いてよく……、とそこまで考えて一気に顔から火が噴き出した。
「~~~~っ」
思い出した昨夜の記憶の刺激が強すぎる。
他人だというのに、重ねた肌の熱さは馴染むように心地好く、腕や腰を強引に掴む強い力に胸は高鳴り、彼の額に滲む汗にすら愛おしさを覚えた。最初は痛みと圧迫感で苦しかったが、次第に本能か備わった回避能力か、身体が微かに覚えた快楽を拾いはじめれば、そこからは渦に飲まれるようにあっという間だった。
腰にはまだ多少の気怠さが残っている。身体も何故だか自分のものではないように感じる。昨日までの自分と別人になってしまったようだ。
「そっか……やっと私、本当の雪人さんの妻になれたんだ……」
凪いだ湖面に一滴の雫を落とした時のように、身体の真ん中から喜びが指の先まで、全身へと行き渡る。
息苦しいほどの切なさとも、跳ねるような高揚とも違う。
じんわりとした、縁側でお茶を飲んだ時の、穏やかで清々しい気持ち。
これが、本当の幸せというのだろう。
自然と、ふふと笑みが漏れた。
茜にされたことなど――確かに傷つきはしたが――些事に思えた。
だって、おかげで雪人と再会でき、この穏やかな幸せを手に入れることができたのだから。
◆
自分の役目だと自負している義父への薬運びだが、午前は届けられなかったため、午後の分を、ミツヨから半ば強引に役目を奪って届けに来た千代だったのだが……。
「珍しく、今朝は来なかったなあ」
「……」
「そういえば、代わりに薬を持ってきたミツヨは、何やらずっとニヤニヤしていたなあ」
「…………っ」
「千代さんはどうしたかと聞いても、『今日はゆっくりとお休みいただきたいので』と、どことはなしに嬉しそうに言っておってなあ」
「も……っもう、やめてください……お義父様……ぁっ」
善路の傍らに座る千代は、盆で顔を隠しながら、ふるふると全身を震わせていた。
善路の快活な笑い声が部屋にこだました。
近頃の善路は、体調が良い日が続いている。
布団から出て過ごすことも多くなってきた。
今は文机の座椅子に座って、開け放した障子戸から見える庭を眺めている。
千代は、自分に流れていた噂について、雪人から聞いた話を善路にすべて伝えた。
「そうか。やはり茜さんだったか」と、彼は特に驚いた様子もなく、ただ一度深く頷いただけだった。
「お義父様も雪人さんも、茜の本当の気持ちに気付いてらしたんですね。なのに、姉として長く過ごした私が気付けなかっただなんて……自分の鈍さが嫌になります」
それどころか、勇一郎が茜と結婚したいがためにでっちあげた話くらいにしか、考えていなかった。
妹を大切にしている、と自分では思っていたのだが、実際は茜のことは何も見てなかったのかもしれない。茜に裏切られていたことも悲しいが、自己嫌悪もあった。
「気に病むこたないさ、千代さん」
肩を落とす千代に、善路はカラカラと笑った。
「妹を疑おうなんて普通は思わない。特にあなたは素直な人だ。他人の私達とは立場が違うから、気付かなくて当然だよ」
それに、と善路は言葉を切ると、ニヤリと片口をつり上げる。
「おかげで、息子にこんな可愛らしい嫁さんが来てくれたもんだ。息子夫婦はどうやら仲良くやっているようだし、これなら早めに孫の顔も見られそうだ」
「ま……っ!? お義父様!」
顔を真っ赤にして情けない声で叫ぶ千代に、善路は腹を抱えて哄笑していた。
「ははっ、冗談だよ。ああ、そうだ。千代さんは、徳冨蘆花の不如帰は読んだことあるかね」
不如帰といえば、千代が生まれた頃に流行った小説である。
冷たい継母の元で育った主人公は、若き当主と結婚することになったのだが、そこで生まれてはじめての幸福を得るという話だ。
「もちろんです」と千代が頷けば、嬉しそうに善路も頷く。
「その主人公の女性が、千代さんに似ていると思ってな」
千代も、継母ではないが父に冷遇されて育ち、決められた相手へと嫁ぐことになったのだが、思いがけず愛し愛される幸せを得ることができた。
確かに、自分でも似ていると思う。
ただ、この物語は夫が軍人であり、その後、二人の幸せな時間は幾度もの戦争で引き裂かれていく。そこへ追い打ちを掛けるように、主人公は結核に罹り、かつて主人公に恋していた男が失恋の腹いせに、主人公の義母に良からぬ噂を吹き込み、噂を信じた義母は夫と主人公とを無理矢理離縁させ、とうとう想い合っていても夫とは再会することなく主人公は病で亡くなってしまうという、悲しい結末を迎える話だ。
(噂……)
雪人は軍人ではないし、気難しい義母もいないから、同じような結末を迎えることはないとわかっているが、要所要所で引っ掛かるものがあった。
千代の顔が僅かに陰った理由に気付いた善路は、首をゆるく横に振った。
「話の筋のことではないぞ。主人公の、幾度の不遇に晒されながらも愛を忘れずに生ききった、その芯の強さを言っているのだよ」
「良く言いすぎです、お義父様」
ふっ、と千代の表情が柔らかくなれば、善路の目元も優しくなった。
「本当によく本を読むんだな。じゃあ、尾崎の『金色夜叉』は?」
「ふふ、お義父様は、困難が多い不条理な物語がお好きなんですね」
金色夜叉は作者が病没したため、未完となっているが、そこまでの物語もやはり裏切ったり裏切られたりと、中々に世の不条理が詰め込まれたものだ。
「そういうわけじゃないぞ。ほら、『西洋事情』も読むし、自助論の翻訳本『西国立志編』も読んでいる」
「もう、お義父様ったら、そんなにムキにならずとも……」
「こんなことでムキになるもんか」
とは言いつつも、善路は恥ずかしそうに「まったく」と顔を庭へと逸らしていた。その姿が、あまりにも拗ねた子供っぽく、千代は小さな笑声と共に肩を揺らしていた。
「随分と楽しそうですね」
突如、穏やかな二人の空気に似つかわしくない、硬い声が差し込まれた。
開け放した障子から廊下を窺えば、スーツ姿の雪人がこちらへと歩いてきていた。
「羨ましいか?」
「何を言っているんですか。家族仲が良いのは歓迎すべきことですよ」
悪戯小僧のように歯を見せて言う善路に、障子に背を預けながら雪人はため息を吐いていた。腕組みをして瞼を重くする様からは、呆れの色が濃く漂っている。
雪人の視線が、足元近くにいた千代へと向く。
「――っお、お帰りなさいませ、雪人さん」
雪人と目を合わせた途端、昨夜のことが思い出され、声が裏返ってしまった。恥ずかしさに千代はパッと顔を俯ける。
「ああ、ただいま。千代」
(え……)
自分の緊張した姿を、彼はきっとまた笑うのだろうと思っていたら、返ってきた声音は普通ですらないひどく重々しいもので、思わず千代は恥ずかしさも忘れ、雪人の顔を凝視してしまう。
彼は千代ではなく善路を見ており、その顔は苦々しそうに口角が下がっていた。
「ぁ……そうでした、ナリさんにお手伝いを頼まれていたんでした」
千代は手早く盆や湯飲みを片付け、すっくと立ち上がった。
そして、「では、失礼しますね」と足早に和館から立ち去ったのだった。




