老人との結納
物心がつき、他者というものがよく見えるようになってきた頃、千代は父が自分と母親を愛していないのだということに気付いた。父と母も、家同士の政略結婚だっというから、それが関係しているのかもしれない。
しかし、冷遇されているというわけでもなかった。身なりを整えるものは買ってもらっていたし、専属の女中も母と自分にひとりずついて、特に不自由を感じたことなどなかった。
父は、ただ自分達に興味がなかっただけなのだろう。
しかし、茜がやって来てから家庭内の空気は一変した。
千代が十二のある日、父が茜を「お前の妹だ」と言ってどこからか連れてきた。
母は父に何も言わなかった。ただ、その日から自分には妹ができた。
いつ母は妹を産んだのだろうかと不思議だったが、女中達が「腹違いの」と言っているのを聞いて、おおよその事情は察した。どこかに妾でもいたのだろう。よくある話だ。
年は八つでとても可愛い子だった。まだ子供だというのに化粧までしていたのには驚いたが、もしかしたら身分がないだけで恵まれた家の子だったのかもしれない。それで、きっと母親が亡くなって父が引き取ったのだろう。
父の茜に対する態度は、今まで見たこともないように甘かった。
茜だけは、父に異を唱えることを許されていた。
茜だけが、父の特別だった。
それでも、母は自分と茜を分け隔てなく扱った。千代も妹ができたことが素直に嬉しかった。茜は素直で愛らしく、「お姉さま」と呼ぶのが可愛くて、千代も父のように彼女の願い事はできるだけ叶えようとしてきた。無邪気だからか、時折鋭いところを突いた言葉を発することもあったが、きっと悪気があるわけではないのだろう。
千代が十四の時、母が病気になった。
肺の病で、離れた部屋に隔離された。
この頃から、父は母と自分への興味をさらに失っていった。
千代専属の女中は茜に移され、母の女中もいつの間にか屋敷からいなくなり、看病は千代の役目となった。
「千代、あなたは自由に生きなさい」――それは、看病の最中、母によく言われた言葉だった。母の身体は回復することなく、一年後に息を引き取った。
母は最期まで、千代に『自由に生きること』を望んでいた。
◆
よく晴れた日だった。秋空は抜けるように高く、涼しさを含んだ風は肌に心地好い。大安吉日を選んだ結納の日取りとしては、申し分ない。
今日は、千代の結納が清須川家で執り行われる日だった。
客間の座敷には、先に清須川家の面々だけが並んで座っていた。今回の縁談の仲人である六角も、一乗家もまだ来ていないようだ。向かいに並べられた三枚の座布団は空だ。
千代が一乗家との縁談を受けると言った日、あの後すぐに一乗家に了承の手紙が出された。その後はトントン拍子に話が進み、あれからたった半月で結納となった。
どちらが急いだのかはわからないが、向こうもなるべく早く嫁がほしいようだ。
おそらく、老旦那には後妻というより看病人が必要なのだろう。
(看病なら、ずっとお母様を看てきた経験もあるし、きっと私にもやれることがあるはずよ)
相手は、はっきりとした年齢は聞いていないが、父より少し上――五十ほどという話だ。『五十……』と思いかけて、頭を振る。
(自分を愛してない人と結婚するよりも、まだ世話人としてでも必要としてくれる人の元に嫁いだほうがずっといいわ)
チラと、隣に視線を向ける。部屋の入り口を背にして右に父が、左に茜が座っていた。不意に、勇一郎に肩を抱かれている茜の姿を思い出してしまった。自分は三年も婚約者だったが、彼に触れられたことなど一度もなかったというのに。
(これでいいんですよね、お母様。私が選んだことだから、これはきっと自由に生きることですよね)
千代は膝の上でぎゅっと握られた拳に、視線を落とした。一緒に視界に映る、茜に借りた薄紅の地に桔梗柄の着物。いつも着ている綿の着物とは比べものにならないくらい、肌触りが良い。今日だけは、自分も薄らと化粧をして女中に髪も揺ってもらった。
久しぶりのお洒落に心が跳ねた。と、同時に、すこしだけ茜を羨ましく思ってしまった。
「ねえ、お父さま。結納の品がないんですけど」
ヒソッと茜が身を乗り出して、千代の奥にいた父に話しかける。




