急転直下
雪人は千代のこめかみに軽い口づけを落とすと、布団を千代の肩まで引き上げ、自分は静かにベッドを出た。
私室に戻り、手早く着替えを済ます。
いつもより少し早い時間。雪人は足音に気を付けながら玄関へと向かう。
「あら、雪人様」
玄関で靴を履く雪人の背に、ミツヨの声が掛けられた。
「……早いな。さすがミツヨさん」
「それはこちらの台詞です。何か問題でもありましたか」
「ああ、少し気になることがあって、今日は早目に会社へ行く」
「かしこまりました、お気を付けて」とミツヨは腰を折り、雪人は玄関の扉に手を掛けた。しかし、思い出したように顔だけで振り返る。
「ああ、そうだ。今日は、千代をゆっくり休ませてやってくれ」
「は?」と、ミツヨは唐突な雪人のお願いに首を傾げた。
「疲れてるだろうからな」
しかし、雪人の嬉しそうな、それでいてどことなく勝ち誇ったような顔を見て、察するものがあったらしい。
「まあっ!」と、ミツヨが目も口も円くして声を上げた時には、雪人の姿は扉の向こうだった。
雪人は、昨日の茜の言葉が引っ掛かっていた。
『ここは横濱で、昔ながらの伝手は一乗よりも多いということですよ』
チヨの正体がばれた今、彼女は同じ手を使って、千代の悪い噂を広めることはしないだろう。これでひとまずは安心といった話なのだが、どうしてか嫌な予感がするのだ。
「彼女の目的はなんだ?」
姉から婚約者を奪うことではないのか。
奪うにしても、可愛がってくれた姉を貶めてまでやることか。
しかも、あの台詞……誰が聞いても、これで終わりとは思えない言い様だった。
「伝手が多い? 千代から聞いた限りでは、今の清須川家よりもうちのほうが、伝手は多そうなんだが……やはり窮状を知らない者のはったりか?」
昨日からずっとどんな結論も腑に落ちず、ひとりでは思考に埒があかなかった。
ひとりで駄目なら二人だと、忠臣も今日は少し早く来いと既に連絡してある。
部屋の窓から、会社前の道を見下ろした。人の往来も増えてきた。
きっと、忠臣ももうすぐで現れるだろう。
「しまった。朝食も買ってくるよう言えばよかったな」
ヨコハマベーカリーの『イングランド』というパンが絶品なのだ。
「あーでも、まだ開店時間じゃ――」
ないかな、と言いかけた時、社長室の扉が勢いよく開いた。
「社長!」
切羽詰まった声と共に、忠臣が駆け込んで来た。
すぐに、何か良からぬことが起こったのだと理解する。
「どうした、臣」
「正金銀行からの我が社への予定融資が、取り消されました!」
そんなはずはないと思いつつも、雪人の脳内には、茜の『これからはどうぞ頑張ってくださいね』という声が響いていた。
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