妹の考えがわからない
本当は自分でも妹の態度が、どこか自分を下に見ているものと、薄々気付いていたのではないか。彼女の善路への言葉や雪人への態度は、今となって思えば、「好き」と言った姉に対するものではないと、頭のどこかではわかっていたはずだ。
それでも妹だからと、気付かぬふりをしていた。
そうあってほしくないという自分の願望から、すべての違和感に目をつぶってきていたのだと今更ながらに思う。
『妹』という目隠しをとれば、見えてくるものもある。
あの茜が自ら、『私がやりました』と素直に言うはずがない。
「茜は自ら雪人さんへ白状したんでしょうか」
「いや、こちらが色々と思い当たる節があって尋ねた」
聞けば、雪人は自分のために、噂にあった『チヨ』と騙る女性をずっと探してくれていたということだった。
噂について彼は嘘だから信じないと言ってくれていたが、それどころか、その噂の出所をずっと探してくれていたとは。
(本当に、彼はずっと私を信じてくれていたのね……っ)
三年間婚約者だった人も、実の父親も信じてはくれなかったのに。
「臣がチヨと騙る茜さんに会っている。それを証拠だとして言ったんだが、彼女は認めなかったよ」
その時の様子を、雪人は語ってくれた。
『お義兄さまったら、何か勘違いなさっているようで嫌ですわ』
顔を上げた茜は笑っており、雪人も忠臣も言葉を失った。
この状況でどうして笑えるのかと。
『私、一度もお義兄さまの話に頷いておりませんが? それなのに、そうだと決めつけて話を進められても困りますもの』
『実際、君がチヨを騙ったのは事実だろう』
『証拠は?』
『噂のチヨにしか名乗ってない「ナルミ」っていう名前を知ってるのが、良い証拠だと思うんですけどね』
威嚇するように眼光を強めた忠臣を横目に、茜は鼻からフッと嘲笑を漏らした。
『そんなの、別のナルミ様と間違えただけですよ。ナルミなんていう名前、いくらでもいますもの』
茜の言っていることは、ただの苦しい言い逃れでしかない。しかし、雪人達もこれ以上の――はっきりと茜がチヨを騙ったという証拠は出せなかった。きっと、ここの店主に茜を見せても、チヨと同一人物とは断言はしてくれないだろう。忠臣曰く、チヨの時と似てはいるが、やはり化粧が違いすぎるという話だった。
席を立った茜は、するりと忠臣の脇を通り過ぎ、雪人の隣で足を止める。
『お義兄さま、これからはどうぞ頑張ってくださいね』
『……どういう意味かな』
『ふふ……ここは横濱で、昔ながらの伝手は一乗よりも多いということですよ』
雪人の目がじわりと見開いた。
茜は、清須川家の人脈を使って一乗の会社を潰すないし、何かしらの妨害工作をしてやると言っていた。
彼女は、遠回しに雪人を脅しているのだ。
『やだぁ、そんな睨まないでくださいよ。何か困ったことがあったら、言ってくださいね。姉よりも私のほうがお役に立てると思うので』
言葉が出なかった。
相手にしているのは、まだ十も半ばの少女だというのに、まるで社会の機微を知り尽くした老獪な人物を相手している心地だった。傍らの忠臣はごくっと唾を飲んでいた。
本当に、千代の妹なのか。
同じ環境で育ったはずなのに、似ているところが何ひとつ見つけられない。
『まあ、その時は、お義兄さまにも何かしてもらいますけどね』と、茜は自らの唇を小指でなぞり、意味深な笑みを残して喫茶店を去っていった。
「――というわけで、君に茜さんのことを聞いたんだが……義理だと聞いて納得したよ」
「そんなことが……」
その場面が生々しく想像できる時点で、きっと自分は茜の本質に気付いていたのだろう。
「すまない。君の気持ちを考えると言おうか迷ったんだが、君がこれ以上利用されるのは我慢ならなくて」
雪人の手が、膝の上で拳を握っていた千代の手にそっと触れた。
千代は首を横に振った。雪人の気持ちは理解できる。
「でも、どうして茜はそんなことを……」
「君の元婚約者を奪うためじゃないのか」
「そんな……言ってくれれば、一も二もなく譲ったのに……」
眉を困らせて本心からだとばかりに言う千代に、雪人が眉を下げて嬉しそうに笑った。
「本当に、二井勇一郎に気持ちはなかったようだね」
「だから最初からそう言ってます」
勇一郎に抱いた感情は、『婚約者だ』というもので、それ以上でもそれ以下でもない。好きや嫌いという次元ですらなかった。
(多分、私がはじめて好きになった人は……)
雪人と目が合い、思わずパッと逸らしてしまった。
(改めて意識すると、こんなに恥ずかしいものなのね)
空いている方の手で、千代は顔を扇ぎ顔に集中した熱を冷ます。
すると、雪人が「だが」と顔をまた険しくした。
「気になるのは、千代が俺の妻になった後もまだ噂を広めようとしていた点だ。二井勇一郎が彼女の婚約者になったのなら、目的は達成したはずなのに」
確かに、それもそうだ。
「勇一郎様と結婚した上で、家に残りたかったのでしょうか」
噂のせいで自分は婚約破棄になり、家を出されることになったのを考えると、それくらいしか思いつかない。家に残るということは、清須川製糸の後を継ぐということで、それは多大な責任が伴うということを、はたして妹は理解しているのだろうか。
「まあでも、これで彼女も二度とチヨにはならないだろうさ。噂は時間が薄めてくれるだろうし、もし君に何か言う奴がいたら、俺が守るから」
「はい」
千代は、嬉しそうに目尻をすぼませ、ほっと薄い肩を落として安堵の息を吐いた。
憂いのひとつはこれで解消した。
実は、千代の憂いは噂の件ひとつだけではない。
『結納金はそれなりに渡したはずだが……』
善路の声が脳内で反芻した。
結婚してからも、ずっと頭の片隅にそのことが引っ掛かっていた。騙しているわけでも隠しているわけでもないのだが、それでも言わないのは不誠実だと思えたのだ。
「雪人さん、私からもお話ししたいことがあるんです」
雪人の手が重ねられた下で、拳がじわりとした汗を握る。心臓も汗をかいたように、嫌な緊張が泥のようにまとわりつくようだ。
「改まってどうしたんだ、千代」
これを告げることで、この優しい声音が二度と自分に向けられることがなくなったらどうしようと、言葉を飲み込みそうになるが、千代は、噂を鵜呑みにせずそれどころか自分を信じて調べてくれていた雪人を信じ、口を開いた。
「清須川製糸は、おそらく長くはもちません」




