さあ、お茶をしようか
喫茶ブルーエは、まだ時間が昼間ということもあり、仕事合間の休憩に立ち寄っただろう男達や、旧友と恋愛談義に花を咲かせる女達が多かった。ただでさえ賑やかな中、女給の、注文を取る若さを感じさせる溌剌とした声が、客達の雑多な会話の上を通り過ぎカウンターの奥へと吸い込まれていく。
そこには酒の妖艶な空気もなければ男女の淫靡さもなく、男女が向かい合って珈琲を飲んでいても、いたって健全な光景でしか見えない。
雪人がカップをソーサーに戻す。
カチャンという微かな音に、向かいの女――茜は我に返ったように、目を瞬かせる。
その顔は一般的に美しいと言える容貌で、こうして座っているだけでも、傍らを通り過ぎる男達のチラチラとした視線を受けている。
千代とは姉妹のはずだが、姉妹だと言われていなければ、誰もそうは思わないだろう。
とはいえ、雪人にとっては一般的な顔の造作などどうでもよく、千代のほうが美しい上に可愛いと思っていた。
それに、すべてを隠すように、しっかりと塗り固めたように化粧をする女は苦手だった。
(化粧……な)
女の化粧技術がどれほどのものかは知らないが、忠臣が言うに、化粧次第では別人になりすますことも、誰かに似せることも可能らしい。
「茜さん、二人きりで話したことがあるとのことでしたが……」
「ええ、そうなんです、お義兄さま」
彼女は聞いてくれとばかりに、テーブルに覆い被さるように上半身を前傾させる。拍子に、ふわりと甘ったるい香水の匂いが香ってきた。鼻の奥にまとわりつくようで、珈琲の香りも台無しだ。
(世の男達は、こんな香りが良いのか?)
きっと、もっと良い香りを知らないのだろう。
安らぐような、清廉で透き通るような香りを。
脳裏に描いた彼女の姿に、思わず雪人の表情が和らいだ。
それを、茜は自分への好意故と勘違いしたのだろう。顎を引き上目遣いになり、眉を下げて庇護欲を刺激するような表情になる。
あざとい――それが、雪人が茜の表情に唯一持った感情だ。
「お義兄さまは、お姉さまのことをどれ程ご存知でしょうか」
「どれ程というと?」
「その……」と、茜は躊躇いがちに視線を一度伏せ、そして再び雪人をまっすぐに捉える。
「お姉さま、昔から家にいないことが多くて……」
「昔から?」
「女学生の頃からです。学校が終わっても日が暮れるまで帰ってきませんでしたし、一度ですが、すっかり夜になって帰ってきたこともあったんです! 今、私も学生の身分なのでわかりますが、同級生の方々もそんな時間まで学校には残りませんし、夜までなんて何をなさっていたのか……」
思わず、雪人はゴホッと咳き込んでしまった。千代の、一度だけの遅い帰宅には身に覚えがある。
このような場で不謹慎だと思いつつも、『一度だけ』ということを嬉しく思ってしまった。彼女の時間をそれほど長く拘束できたのは、自分だけだったのかという特別感とも優越感ともいえない喜びがこみ上げ、ニヤけそうになる顔を咳で誤魔化した。
突然咳き込んだ雪人を不思議そうな目で見る茜に、雪人は手を差し出して『どうぞ』と話を促す。
「それで……今、街でお姉さまのことが噂になっているんです」
「噂……」
「夜な夜な家を抜け出して男漁りをしていると……きっと、学生の頃からです! お父さまが何も言わないからって、そんなふしだらなことを……っ」
「ですが、千代はもう結婚しましたから。結婚前の恋愛事情など、こちらが口出しできたことではありませんし」
「それが、噂によると今もまだ喫茶店に現れるようで。私、その噂を聞いた時、お義兄さまが可哀想で可哀想で……っ」
茜は声を震わせ、指で目尻を拭っていた。
雪人は「なるほど」と言って珈琲に口を付け、その後しばらくは口を開かなかった。
二人の間に会話がなくなると、騒然とした店内の音が嫌に際立って聞こえる。ワイワイ、ガヤガヤ、アハハハと実に楽しそうだ。
「さぞ……驚かれたことでしょう、お義兄さま」
店内の雰囲気とは正反対の、悲哀がこもった声だった。同情的な声とも言える。
「こんなことを伝えてごめんなさい……でも、私……っお姉さまに笑いかけるお義兄さまを見たら、とても黙ってられなくて。本当なら、お姉さまのやったことを考えれば、すぐにでも離婚を切り出されても仕方ないことです。ですが、お姉さまの幸せを奪うのは私の本望ではありませんし、結婚してすぐ離婚というのは、お義兄さまの評判にも関わってきますよね」
雪人が口を閉ざしたままでいる間、茜は堰を切ったようにずっと喋っていた。我慢していたものを吐き出すように、口から滝のごとく一方的に言葉を浴びせ続けた。
「清須川家の娘に求められていることはわかります。私の婚約者の勇一郎さまも、やはり私だけでなく、私の後ろにある清須川家というものを求められてますから。お義兄さまも、清須川家が持つ繋がりが欲しかったから、うちに縁談を申し込まれたんですよね」
きっと、自分が口を閉ざしているのは、彼女の話に衝撃を受けているからと思っているのだろう。まるで、こちらに考える時間を与えないといわんばかりに、彼女は矢継ぎ早に言葉を並べ立てる。
「私がお義兄さまの力になります。私も清須川家の娘ですし、家に残る私のほうが、きっと色々とお義兄さまのお役に立てると思うんです。だから、私にはなんでも話してください! 私、お義兄さまのためなら……」
余韻を残した言い方を、たっぷりと甘えた視線と一緒に投げかけてくる彼女に、嗤笑が漏れそうになった。堪えたが。
やっと口の動きを止めた彼女は、今度はこちらの言葉を待っていた。
期待に応えて、口を開く。
「では早速ですが、少々君に聞きたいことがありまして」
「なんでしょう」と彼女は、顔を輝かせた。




