何それ知らない
「そうですか。それで、そちらは千代の元婚約者で、二井子爵家令息の二井勇一郎様で間違いはありませんか?」
「ほう、平民でも華族家の名前くらいは知っているようだな」
途端、勇一郎の顎が上がった。余程、雪人が自分のことを知っていたのが気持ちいいらしい。
茜は人知れず、薄い溜め息を夜の空気に流した。
勇一郎も以前は格好良く見えていたのに、雪人の隣に立った途端、並の男にしか見えなくなってしまった。いや、名前を言われただけで急に鼻高々と胸を張る姿は、小物にしか見えない。
同じスーツ姿だというのに、相手は平民だというのに、自分の婚約者だというのに。
手が強く拳を握りしめる。
「ええ、よく存じ上げておりますよ。そうだ、お家のほうはどうでしょうか」
「家? なんのことだ」
「つい先日、二井家は持っていた土地の一部を、売りに出されていたではありませんか」
「え?」と、言ったのは茜だった。
「ゆ、勇一郎さま……土地を売られたってどういうことでしょうか……?」
そんな話まったく聞いていない。
二井家は華族ではないのか。華族といったら、士族や平民よりも遙かに金を持っているはずだ。
でも、土地を売るということは金がないのか。
何か急に入り用になったのか。
それとも……元から金のない家だったということなのか。
突然飛び込んできた、予想外の情報に頭が追いつかない。
「た、大したことじゃない」
勇一郎は、茜と目があうと歯切れ悪く答えた。
茜の口端が引きつった。
「ぼ、僕は清須川家に婿入りするんだ、二井家のことは茜には関係無いだろ」
「そ……」
そんなはずない。華族だということを利用し続けるのであれば、婿入りしようが二井家との関係は切れない。だからこそ、茜は勇一郎を選んだのだ。
「やっぱり平民は品がない。よその家の懐事情まで覗かないと気が済まないのかい。土地は、いっぱいあっても管理に困るから手放したまでで、あくせく働く平民と違って金には困ってなくてね」
「ハハッ」と、勇一郎の苦しまぎれの笑い声が虚しく響く。
「――っ茜、行くぞ! こんな拝金主義の田舎者が行くような店でなんて食べたくないね」
「あっ、勇一郎さま!」
気まずさに耐えられなかったのか、勇一郎は茜を置いて赤い顔で立ち去ってしまった。茜は待ってと手を伸ばしかけたのだが、あっという間に消えてしまった勇一郎に、手は力なく身体の横に戻った。
「茜……」と、背後で千代が呟く声が耳についた。
奥歯を噛み砕いてしまいそうだった。
茜もこれ以上この場には留まりたくなかった。千代に憐れまれるなどごめんだ。
「……それじゃあね、お姉さま」
振り返らずにその場を立ち去ろうとした。が、背中に予想していなかった者からの声が掛かる。
「茜さん、この間の話、ぜひ聞かせていただきたいんですが」
「え?」
振り向かないと決めていたのに、あまりの衝撃に振り返ってしまった。そこには、にこやかな顔をした雪人と、自分と一緒で言葉を理解できていない千代がいた。
「ほら、私の耳に入れておきたい話があると、以前言っていたじゃないですか。興味がありましてね、ぜひとも聞かせてもらいたいなと」
まさか聞く気があったとは……。




