天と地
近付いた距離を、雪人が空いたもう片方の手を千代の後頭部に回し、さらに縮める。
『千代……っ』
雪人の熱を帯びた掠れ声に、千代は瞼を閉じ、唇に重なる熱を自ら受け入れた。
『ん……っ』
不意打ちの口づけよりも長く、一旦離れても、惹かれ合うようにどちらからともなく再び唇を重ねた。
そうして幾度かそれを繰り返し、やっと二人は顔を離した。
『千代』と雪人に呼ばれ、上げた千代の顔は目がとろんと溶けて、『はい』と返事する声までふやけている。
雪人は千代の頬を撫でた。
『この仕事が終わったら、二人で出掛けようか。実は、君と山手教会堂に行きたいと思っていたんだが……』
『山手教会堂といいますと……本町通りのほうですね』
『ああ。実は好きな建築家が手掛けたもので……その……女性はきっと見てもつまらないと思うんだが』
こんな自信がなさそうに言う雪人ははじめて見た。
指先を忙しなく擦り合わせているのが本当、なんとも可愛らしい。
『ええ、一緒に行きましょう。雪人さんの好きなものは、私も知りたいですもの』
パッと雪人の表情が、子供のようにきららかしいものになる。
『ですが、仕事が終わってからですと少し遅いかも……閉まっている可能性もありますよ』
『ああ、そうか……』
『また別の日に行きましょう。教会は逃げませんもの』
ふはっ、と雪人は眉尻を下げてたまらないと言うように笑った。
『そうだな。じゃあ、今日は夕飯だけだ。元町に美味しい洋食屋があるって、臣に教えてもらったんだよ』
こうして、千代と雪人は夕方から元町へと出掛け、美味しい洋食屋――「レストラン・ベリーニ」で夕食を終えて店を出た先で茜と勇一郎に遭遇したのだった。
◆
「お姉さま、どうしてこんなところに……それにその格好は……」
茜はチラと店の看板を見た後、千代の全身を上から下まで怪訝な目で眺めた。
「雪人さんが美味しいお店があるからって一緒に……」
そう話す千代は、清須川家で見たこともないくらい、幸せそうな顔をしている。
「それと、このワンピースはお店に来る前に、雪人さんが街で買ってくれて。その……洋装なんてはじめて着るんだけど、ど、どうかしら?」
頬を染め、面映ゆそうにしながら隣に立つ雪人をチラチラ見る姿に、茜の心は毛羽立った。くわえて千代を見つめる雪人の目も、この間会社で見た時よりももっと優しいもので、思わず舌打ちしそうになるのを、すんでで止めた。
千代が愛されるわけがない――そう思っていた。
容姿も可愛げも家も要領も何もかもすべて、自分のほうが上なのに、どうして雪人は千代をそのような目で見ているのか。
これではまるで、雪人が千代のことを好きみたいだ。
(あり得ない……っ、お前は愛されて良い人間じゃないんだよ……!)
雪人も千代の噂のことを知らないから、こんな顔をしていられるのだ。
身体の横にあった手は、知らぬ間に拳を握っていた。掌に食い込んだ爪の痛みで気付く。
茜は内心とは反して笑顔を作った。表情と言葉を偽ることなど、自分にとっては容易いことだ。
「ええ、お姉さまとっても似合ってるわ。それに、化粧もしてるのね」
「そ、そうなの。女中さんが、雪人さんと出掛けるのならって……」
「そう……」
ああ、血反吐が出そうだ。全てが癪に障る。その嬉しそうな顔も、控えめに雪人を見る視線も、自分だけが許されていた洋装姿も、店を出る時からずっと繋がれた手も、何もかも。
「でも、お姉さまにはちょっとけばけばしいんじゃないかしら?」
茜はいかにも助言ですとばかりの顔で言った。「え」と千代の眉が揺れる。
自分の言動でもっと不安になればいい、と彼女の次の反応を楽しみにしていたのに、背後から突然割って入る声があった。
「へえ、随分と見られるようになったじゃないか」
勇一郎だった。
今まで自分に腕を引っ張られていたというのに、彼はスッと茜の横を通り過ぎ、千代の前に立つと、にやついた顔を近づけてジロジロと全身を観察していた。
「元からそのくらいやってくれていれば良かったものを。そうすれば、僕に振られずに済んだのに」
勇一郎の指が千代の顎に触れそうになった瞬間、パシンッと肌を打つ音が響いた。
「痛った!」
雪人が、千代に伸びた勇一郎の手を叩いたのだ。
「何をするんだっ!」
「失礼、私の妻ですので気軽に触れないでいただきたい」
「はあ、妻? 千代は病気の爺さんに嫁いだって話だったが……君こそ誰だよ」
ああ、忘れていた。勇一郎には、千代の相手が手違いでジジイではなく、本当は息子のほうだったことを伝えていなかった。
(ジジイと結婚するから愉しかったのに、若い、それも見目が良い男と結婚するなんて、わざわざ言いたくなかったのよね)
「千代の夫の一乗雪人です。どうやら、話が伝わる中で少々誤解があったようで……元より彼女の嫁ぎ先は私でしたので、どうぞご心配なさらず」
「はあ!? だ、誰も心配なんかしてないだろっ」
ああ……面白くない。
茜は三人の様子を、ただ静かに見つめていた。




