はじめての口づけ
「その……」
「はっ、はい!」
千代の背筋が反るほどに伸びた。
「き、君はまだ…………のか」
「え?」
ぼそぼそとしていてよく聞こえなかった。いつもはっきりと喋る彼がどうしたことか、珍しい。
「すみません、よく聞き取れなくって。もう一度言ってもらっていいですか?」
雪人は一瞬だけ横目で千代を捉えると、はぁと腹の底からの長い長いため息を吐き、身体事千代へと向き直った。
「――っ君は! まだ勇一郎って男のことが好きなのか!」
「え、ええ!? どうしていきなり勇一郎様が!?」
今日はよくその名を聞く。
千代にとってすっかり過去の人でしかなかったのに、なんだというのか。
「君の元婚約者だと聞いたんだが」
「あ、ああ……そういうことですね。すみません、黙っていたわけではなくて……言う機会がなかったといいますか……」
きっと善路から今朝のことを聞いたのだろう。であればきっと、どういった理由で婚約破棄をされた女だということも、知っているに違いない。
「申し訳ありません。あの噂のことも聞かれました……よね。実はその噂――」
「いや、噂なんてどうでもいい。どうせ嘘だろうしな」
「へ!?」
食い気味に一刀両断された。
「それより、君は未だその男のことが好きなのか?」
それどころか、『それより』と言って噂を一蹴された。善路も取り合ってはいなかったが、それでも自分の妻にそのような不埒な噂があると知ったら、誰でも嫌悪するだろうと思っていたのに。
強い力で両肩を掴まれ、ずいっと顔を寄せられる。
「そいつはどんな男なんだ。君をなんて呼んでいた。君に何を贈った。君のどこに触れた。君とどれだけ一緒にいたんだ」
てっきり噂のことを問い詰められるかと思いきや、雪人は千代が予想もしないことばかりを聞いてくる。
「ままま、待ってください、雪人さんっ。勇一郎様とは家が決めた婚約でして、そのような深い仲ではまったくなく……」
「本当か?」
顰められていた眉間の皺が少し浅くなる。
「本当です本当です! 触れられたこともありませんし、贈り物をもらったことなどもありませんでした。三年ほど婚約者でしたが、その間に彼が私を訪ねてきたのは数えるほどで……季節の変わり目に義務的に顔を合わせる程度だったんですから」
正直なところ、勇一郎に対する感情は『婚約者だな』くらいしか持ち合わせていない。だから、婚約破棄と言われても、心配事はあったが悲しみはまったくなかった。
「じゃあ、なんて呼ばれていた」
「それは千代、と」
「千代」
「は、はい」
急になんだろうか。
「千代」
「ええっと……はい」
「千代」
「はい……あの、どうされたのですか?」
何かあるのかと構えていたのだが、名前しか呼ばれない。
雪人の顔が遠ざかっていき、隣の千代ではなく誰もいない正面を向く。その口元は不機嫌そうに歪んでいる。
「その男が、俺よりも君の、いや、千代の名前を呼んだのかと思うと腹立たしくてね」
千代は口をポカンと開け、唖然とした。
今までも彼は可愛いや美しいなど言うこともあったが、それは自分の言動などに対してであり、嫌われてはいないのだろうとは思っていたが……。
しかし、この言い様だとまるで……。
「もしかして嫉妬を……」
そう、まるで勇一郎に嫉妬しているみたいで。
(それはつまり、雪人さんは私のことを好きって……こと?)
カァッと身体が熱くなったが、千代は頭をぶんぶんと横に振り、都合の良すぎる考えを追い出す。
「あ、あはは、そ、そんなわけないですよ――――んっ」
突然、視界が雪人だけになった。いや、彼かどうかもわからない。だって、彼の閉じた目しか見えないのだから。
ただでさえ熱かったのに、唇に触れる柔らかなそれはもっと熱かった。
微かな水音を立てて熱は離れていき、ヒヤリとした唇が寂しく、胸が切なくなる。
二人の間で、はぁ、という熱っぽい吐息の音だけが落ちた。
コツン、と額がくっつく。
否が応でも彼の黒い瞳と目が合った。
「悪いか。君は俺の妻だ」
雪人は、バタバタと慌ただしく寝室を出て行った。
ただ、戸を閉める音はとても優しく、パタンと部屋に音が響いた瞬間、千代はベッドに倒れ込んでしまった。
胸の内側を激しく心臓が叩いていた。
痛いのか、甘いのか、むずむずするのか。
「胸が壊れちゃいそう……っ」
口づけとは、こんなに甘くて幸せなものだったのかと、はじめて知った。
◆
「……面白くない」
千代を訪ねた日から数日が経ち、今日は学校もちゃんと休みの日曜日だった。
茜は朝から自室の畳の上で横たわり、畳の目に爪を引っ掛けては、ガリガリと猫が爪を研ぐように畳を掻いていた。
もしかして文字数ちょっと少ないですか?
サクッと読んでもらえるよう2000字程度にしてるんですが、3000字くらいのほうがいいですか?
ご希望なければこのままのペースで行きたいと思います




