雪人へのおつかい
恐る恐る顔を上げ、隣の善路を見上げれば、彼は口角を下げた厳しい顔で茜を見ていた。対して茜は、目を瞬かせヒクリと口端を引きつらせている。
「わ、私が……ですか」
「千代さんを庇うふりして、噂に本当の部分もあると誤解させるような言い方をしていただろう。士族家のご令嬢だというのに、随分と性分は下世話なようだ」
カッ、と茜は眉を怒らせ顔を赤くした。
しかしそれも一瞬。吊り上がった眉は八の字に下がり、きゅうと目尻がすぼまる。
「わ、私そこまで考えてなくて……でも、お姉さまがいなくなった寂しさから、無意識にお姉さまを責めるような言葉になってしまったのかも……一乗のお義父さま、不快にさせてしまいすみません」
オロオロと視線を足元に彷徨わせながら頭を下げた茜に、善路は鼻からふうと息を吐く。
「……そうだったのか。それは勘違いしてすまなかったね」
「いえ……勘違いさせてしまった私が悪いんですもの」
頭を上げた茜は次に、顔を千代へと向ける。
「ごめんなさい、お姉さま。家を出たのはお姉さまの責任じゃないのに、寂しくてつい当たっちゃったの。お姉さまのこと大好きなの、信じて」
「茜……」
確かに昔から彼女は、あまり深く考えずに発言する節があった。
目を潤ませ、許しを請う猫のような顔で見つめられたら、千代も頷かざるを得なかった。
◆
これ以上話を、という雰囲気ではなくなってしまい、そのまま茜は帰ると言った。
千代も一緒に玄関外まで見送りに出る。
「じゃあ、また」と茜が手を振って離れようとしたところで、玄関の内側から「千代さん」と善路の声が聞こえた。
「はーい、ただ今。じゃ、気を付けて帰ってね、茜」
千代は茜に手を振って、玄関へと戻った。
戻った先では、封筒を手にした善路が立っていた。
「千代さん悪いが、今から雪人の会社にこれを届けてくれないか」
持っていた封筒を差し出される。薄い。
「会社に……書類でしょうか」
「ああ、雪人の忘れ物だ。書斎に置き忘れていた。悪いが行ってくれるかい? 関内だからそう距離はない」
「もちろんです」
善路から会社の住所が書かれた紙をもらい、千代は屋敷を出た。のだが――。
「お姉さま、どちらへ?」
屋敷の門を出たところに茜が立っていた。
まだ帰っていなかったのかと驚きつつも、学校を休んできているし、格好も父親の嫌いな洋装だし、すぐには帰れないのだろうとひとり納得する。
「雪人さんの会社へ忘れ物を届けに行くの」
「まあっ」と、茜は表情を輝かせ喜色に満ちた声を出した。
「私も行きたい! ねえ、お姉さまついていって良いでしょう?」
右腕に抱きつかれ、顔を近づけてくる茜に「う~ん」と千代は逡巡した。
「ねえ、お願いっ。このまま家に帰ったりできないし、せっかく久々にお姉さまと会えたんだもの。もっと一緒にいてもいいでしょう?」
茜は絡みついた右腕を、子供が母親に駄々をこねるようにブンブンと振りながら、拗ねた顔して見つめてくる。
ここは、時間潰しに付き合ってやるのも姉の役目か。
「……大人しくできる?」
「できるできるっ! やった、お姉さま大好き!」
「まったく、調子が良いわね」
千代は苦笑し、腕に茜をひっつけたまま雪人の会社がある本町通りへと向かった。
◆
横濱関内にある本町通りは、貿易商や金融業などの店や会社が多く建ち並ぶ商業中心地である。外国人が多いこともあり、看板は英語で書かれ、建物も洋風建築と異国情緒にあふれていた。
千代は、その中にある四階建てのビル――表の看板に漢字と英語で『一乗汽船』と書かれた会社を訪ねた。
「千代、どうして君がここに……!」
社員の男に案内された『社長室』という札が掛かっている部屋に入ると、中にいた雪人は、鳩が豆鉄砲をくらったように目を丸くしていた。
雪人の他にも何人か社員もおり、彼が社員達の好奇の目に「妻の千代だ」と渋々紹介する。
「お仕事中お邪魔します、妻の千代と申します。こちらは私の妹です」
「こんにちは、清須川茜と申します」
ざわっと空気が毛羽立った。一瞬だが「清須川」と呟く声も聞こえた。
(な、何かしら?)
皆笑顔を向けてくれているが、急によそよそしさが漂いはじめる。
「それで何かあったのか」
「お義父様に言われて届け物を。あの、お義父様から連絡などは……」
「いや」と、まだも雪人はこの場に千代がいることが信じられないとばかりに、言葉少なにまじまじと千代を眺める。いつもはしっかりとしている雪人の滅多に見ない呆けた様子に、千代はクスクスと忍び笑いを漏らす。
「どこか変なところでもあるか?」
雪人は千代の笑みの意味がわからず、腕を上げたり腰を捻ったりして自らの格好を見直していた。さらに千代の笑みが濃くなる。
「いえ、なんだか雪人さんが愛らしくて」
「あ、い……!?」
「ふふ、おつかいに来て良かったです。お屋敷では見られない雪人さんを見ることができて、得した気分になりました」
「……っ」
素直な気持ちを伝えれば、彼はフイッと顔を背けてしまった。ただ耳の色を見ると、怒ったからではなさそうだ。少しずつだが、雪人のことがわかってきた。




