どうしようもないな
元より茜と違って、好き合って決まった婚約ではなかったのだし、贈り物を欲しいと思ったことも一度としてなかった。
(ああ、もしかして罪悪感を覚えてしまったのかしら)
義務的な婚約者だったとはいえ、姉の婚約者を奪ったとも言えるのだから。
「あのね、茜。私はもう勇一郎様に未練とかはなくて、だから――」
「そんな嘘を吐かないでっ! お姉さまが、元婚約者だった勇一郎さまのことを、まだ想ってるの知ってるから。私のせい……よね。私が勇一郎さまの心を奪ってしまったから……っ、お姉さまは平民の家なんかに嫁ぐ羽目に……!」
千代は苦笑しつつも、「茜」とそれより先の発言を制した。
いくら妹でも、一乗を低く見たような発言は聞き逃せなかった。
すると、コンコンとノックが響き戸が開いた。
ミツヨかと思っていたら、現れた者の姿を見て、千代は目と口をぱっかりと大きく開いた。
「お、お義父様!?」
現れたのは、灰色の着流しに黒い羽織を肩にかけた善路だった。
千代はソファから立ち上がり、慌てて善路に駆け寄る。
「お身体は大丈夫なんですか」
そっと肩口に手を当て、身体を支えるように寄り添う。しかし、善路の背中は少しも曲がっておらず、支えなど必要ないくらい堂々と立っている。
「ああ、今日は調子が良くてね。以前、ずっと寝てばかりも逆に不調になると医者に言われてな、時にこうして散歩するんだ」
「それなら安心しましたけど……無理はなさらないでくださいね。何かあればすぐに仰ってください」
「ああ」と善路は細めた目で頷いた。
「ところで、そちらのお嬢さんはどうしたのかな。確か、千代さんの妹だったかな。祝言の席で見た覚えがある」
「い、妹の茜です。すみません、お騒がせしてしまって……」
チラッと茜に視線をやると、彼女もソファから立ち上がって善路に頭を下げていた。
「お邪魔しております、一乗のお義父さま。すみません……私のせいで姉につらい思いばかりさせていると申し訳なくなり、つい……」
「つらい思い?」
横目で善路が千代に窺うが、千代は首を横に振る。
「お姉さま、ご自分を偽らないで! あんな噂のせいで、勇一郎さまとの婚約が流れてしまったのだから! 悲しくて当然よ!」
「だからその噂は、勇一郎さまが適当に作った――」
「あんな噂? 千代さんは息子と結婚する前に婚約者がいたのか」
千代の声に被せるようにして、善路が茜に問いかけた。茜はグッと力強く握った拳を胸の前で構え「はい」と、これまた力強く頷く。
「あまり公にはされていませんでしたが、二井子爵家の勇一郎さまです。しかし、その噂で姉の品行には問題があると、勇一郎さまは新たに私と婚約することになりまして」
「そうか、なるほどなるほど」
「その噂というのが、姉は夜な夜な色々な男の人と遊び歩いているというもので……お姉さまに限ってそのような話は信じられませんが……でも、確かに姉だけは本邸ではなく離れで暮らしていましたし……」
「……っ」
千代は息をのみ、顔を俯けた。
(そんな風に思ってたのね……)
勇一郎が自分と別れたいが為につくった適当な噂話など、茜は信じていないと思っていた。父は自分の話など聞こうともしなかったが、あの日――婚約破棄の日、唯一自分を心配してくれた茜だけは、自分の言葉のほうを信じてくれていると思っていた、のに……。
両手を強く握りしめ、ただただ耐えた。
きっと、善路も茜に言われればそちらを信じるだろう。
皆可愛い茜のほうが好きなのだ。父も勇一郎も清須川家の女中達も……。
(せっかく、お義父様と心が近づいたと思ったのに……きっとこれからは部屋にすら入れてもらえないわね。それどころか、雪人さんと離縁することになるかも……)
ズキッと胸の真ん中が痛んだ。
(あ、れ……?)
痛みからか、ツンとしたものが目にこみ上げてくる。
「まったく、どうしようもないな」
善路の憤った声が頭上から聞こえた。どのような顔で言っているのか。見るのが怖くて、何を告げられるのか怖くて、顔が上げられなかった。
「お怒りはごもっともです。ですが、姉も色々とありましたから。きっと噂も、多少の夜遊びに尾ひれがついただけ――」
「どうしようもないな、あなたは」
「え?」
茜の声と千代の心の声が重なった。




