会いたくて、来ちゃった
朝の薬を、千代ではなくミツヨが持ってきたことに善路は首を傾げた。
「千代さんは具合でも悪いのか」
千代が薬を持って来なかっただけで、何かあったのではと心配する善路を見て、ミツヨは楽しそうに目を細め、薬を手渡す。
「違いますよ。来客がありまして」
「こんな朝からか? 誰だ」
「奥様の妹さんですよ」
善路は白湯を飲み干し、ミツヨが差し出した盆にコトンと置いた。
「へえ……家に残った妹か」
◆
「急に来るから驚いたわよ。学校は?」
「休んじゃった。お姉さま今頃どうしてるかなって、寂しくなっちゃったの」
玄関の奥にある応接室で、千代は朝から訪ねてきた茜の対応をしていた。
「休んだって……嬉しいけど、お金を出して通わせてもらってるんだから、今度からは休日に訪ねてらっしゃい。それと、前もって連絡はしてね」
茜はごめんなさいと首をすくめていた。
それにしても、わざわざ一乗家まで自分を訪ねてくるとは驚いた。清須川家にいる時は、離れと本邸とで顔を合わせる機会も少なかったが、寂しいからと彼女が離れに来ることはなかったというのに。
「でも、連絡っていっても、一乗のお家には電話なんてないでしょう? うちにはあるけど」
電話線が引かれて三十年近く経つが、未だに電話というものは高価なもので、持つ家は限られている。官公庁や企業など、通信が業務や商売として必要な者達の利用がほぼで、その他は華族や資産家など一部の者達の家にしかなかった。
「気遣ってくれてありがとう。でも、一乗にも電話はあるから安心して」
「え?」
女中部屋の隣に、開け放しだが電話部屋があった。基本的に掛かってきた電話はミツヨ達が受け、取り次いだり伝言を預かっているらしい。
「だけどやっぱり、前もって手紙でお願いね。個人的に電話を使うのは気が引けちゃうもの。お仕事の電話が掛かってくるかもしれないから」
「ね?」と千代が同意を促せば、茜は「今度はそうする」と頷いた。
「……ねえ、茜。お父様の会社のことなんだけど、あなたは何か関わってたりする?」
いきなりの結婚で家をでたため、会社のことが気になっていた。
「会社? 清須川製糸のこと?」
「うん。ほら、書類整理とか本を探したりだとか……お父様に頼まれてない?」
「あっはは! やぁねえ、お姉さまったら。私、まだ学生よ。そんなこと頼まれるわけないじゃない」
千代も母も、確かに目立つ部分ではないが、会社の運営に多少なりとも携わってきた。千代が女学校の図書室で働いていたのも、その結果だ。
千代に対しては、父は学生だろうがまるで構わなかった。言葉を柔らかくして言ったが、本当は父に頼まれたことなどない。自分には、いつも命令だったのだ。
しかし、茜は何も知らないらしい。
それどころか、彼女の言い方では、頼まれ事すらされたことがなさそうだ。
前々から痛いほど理解していたが、父の愛情には姉妹の間で大きな差があったようだ。
「女がそんなことに関わっちゃダメよ。あっ、もしかしてお姉さまったら、結婚後は自分も会社に関わらせろとか勇一郎さまに言ったんじゃない? そりゃ、勇一郎さまだって怒るわよ」
茜はナリが出してくれた紅茶をコクリと飲むと、フッと軽く笑った。
「だいたい、そういうのって会社の下の人がするようなことでしょう? 未来の社長夫人がそんなことやってるの、誰も見たくないと思わない?」
「そう……かしらね」
なんとも言えず、千代は苦笑で流し「そういえば」と話題を変える。
「その格好はどうしたの? よく洋装なんてお父様が買ってくれたわね」
茜は、淡いピンク色の膝下ワンピースを着ていた。
父は洋風のものを毛嫌いしており、いくら可愛がっている茜相手でも、着物しか許してこなかったというのに。
「お父さまからじゃないのよ。もちろん、お父さまには内緒なの」
「だったらどうやって……」
「勇一郎さまが買ってくれたの。君には洋装の華やかなものが似合うからって」
久しぶりに聞いた元婚約者の名前に、千代の視線がさがった。
「勇一郎さまってとても優しいわよね。洋服だけじゃなくて羽織や帽子も、色んなものを君には似合うからって、こっちがいいって言っても買ってきて……あっ」
ワンピースを見下ろしながら意気揚々と語る茜は、突然声を上げて、申し訳なさそうに首をすくめた。
「ご、ごめんなさい……お姉さまって勇一郎さまから贈り物をもらったことは……」
千代はゆるく頭を横に振って苦笑した。
「気にしないで。やっぱり贈る方も、なんでも着こなしてくれる人に贈りたいものでしょう? 私はほら地味だし、送り甲斐もなんてないから」
「お姉さま、ごめんなさい! 私、そんなつもりなくて……っ!」
いきなり感情を昂ぶらせ目を潤ませる茜に、千代はギョッとした。
「う、うん、大丈夫だから……もうちょっと声を抑えてくれるかしら」
ミツヨ達が何事だと驚いて駆けつけてきてしまう。ただでさえ、いきなりの客で慌てさせたというのに、これ以上彼女達の仕事の邪魔をしたくない。
しかし、茜は感情の導火線に火がついたのか、「ごめんなさい」を繰り返していた。
(困ったわ……もう本当に勇一郎様のことは、なんとも思ってないのに)




