彼女とは運命だったのだ
『当たり障りない感じですよ。お互いの名前と趣味と……あと、よくこの店には来るのかって』
雪人は瞬きで頷いた。
忠臣もわかったもので、雪人の顔色だけで何を求めているのかを瞬時に察し、彼が欲している答えを述べる。
『やっぱり「チヨ」って名乗りましたよ。清須川家にも同じ名前のご令嬢がいたけどって鎌掛けたんですけど、そこにはのってきませんでしたね。想像にお任せするわ、って感じでした。趣味は「楽しいこと」って、どんな意味にでもとれるような返答でしたし、まああしらいが上手い。あの顔で、そんな意味深なことを笑顔で言われたら、並みの男ならふらふらといくでしょうね』
『お前は並みだったのか?』
雪人の片口が、揶揄いを滲ませクッと吊り上がった。
忠臣は両掌を上向け、眉を持ち上げたひょうきんな顔で鼻から息を吐いた。何も言っていないのに、「わかりきったことを聞かないでくださいよ」と聞こえるようだ。まるで芸人のようだなと、雪人はつい小さく噴き出してしまった。
『そして、「最近結婚したから、夜はあまり出歩けなくなった」とかも言ってましたね。堂々と不倫宣言ですよ』
『最近結婚した、ね。俺の妻も、つい最近結婚したばかりなんだがな……』
偶然の一致なのか、それとも誰かを想起させようとしているのか。
いや、ここまで来ると偶然の一致や、噂の一人歩きの結果とは考えられない。明らかにその女は、はっきりとした意思があって、千代に不名誉な評判をなすりつけようとしているのだ。
思案にふけっていると、『社長』と、忠臣が何か言いたそうな重苦しい声で呼んだ。
『ん、なんだ』
『社長の奥さん、ちゃんと夜は家にいるんですか? 実はこっそり抜け出したりしてませんか? 本当に本当にこのチヨじゃないんですよね?』
忠臣はぶつぶつと、『あの家は無駄に広いから、抜け出そうと思えばできるんだよなぁ。あの二階の部屋の前の木で……』と、過去の自分の若気の至りを暴露していた。
雪人は大きなため息を吐いた。
『安心しろ、臣。神に誓って、そのチヨは俺の妻じゃない』
絶対に別人だと自分は言い切れる。だが、彼は千代のことを知らないし、自分のことを心配してくれているだけなのだから、こうやって疑り深くなっても仕方ないのだろう。
『お前も一度会えばすぐにわかるさ。玄人なんてのとは対極にいるような女性だから』
それにしても、玄人の女と千代のどこに接点があるのだろうか。
なぜ、その女は千代の評判を落とそうとするのか。
千代は、決して他人から恨みを買うような質ではない。
一瞬、清須川家の家業絡みかと思ったが、それならば千代ではなく父親を狙うのが常道だ。ましてや女学校を卒業してからの千代は、外との付き合いもほとんどなかったようだし、なおさらその謎の女との接点が気になる。
『まあ、玄人かどうかってのは自分が感じただけなんで、その部分だけは半々くらいに思っておいてくださいね』
『わかったよ。色々とすまなかったな、仕事もこなしながらで大変だっただろう。三日の休暇を出すから少し休め』
『やった! さっすが社長! 人の扱い方をよくわかってらっしゃるう』
雪人は結納の時、千代を目にした瞬間から噂は嘘だと確信していたため、この再調査は周囲を納得させる証拠を集めるためのようなものだった。
自分ひとりの感情論で否定するより、生の彼女を見てもらった後に証拠を出したほうが説得力も増すというもの。
案の定、父は顎を指で撫でながら「なるほど」とひとりごちていた。
「最初は猫をかぶっているのかと警戒したが、それもしっくりこなかった。彼女の言動は……本心から私を気に掛けるようなものばかりだった」
雪人の口元が緩んだ。
どうだと言わんばかりの表情に、善路の目も大きく見開く。次の瞬間、善路は「ハッ」と眉根を寄せ、堪らないとばかりに声を上げて笑った。
「お前のそんな顔、親ながらはじめて見るな。よっぽど千代さんのことが気に入っているんだな」
雪人は父に大笑され自分の顔が緩んでいることに気付き、手で口元を隠すようにして緩んだ頬を揉んだ。無意識だった。
「お前のその顔だけで、彼女を嫁に選んだ甲斐はあったかな」
「その件については一生感謝しますよ」
清須川家との縁談の話が来たのは本当に偶然だった。だが、そこで千代が相手だったのは、偶然ではなくやはり運命なのだろう。
再び父はクツクツと喉を鳴らして笑っていた。また顔が緩んでいたのかもしれない。気を付けなければ……。
父が「さて」と言った瞬間、彼の顔からは既に笑みは消えていた。
「この噂、実に恣意的なものを感じるな」
部屋の温度がぐんと下がった――気がした。病に伏しているとはいえ、一年前まで会社を引っ張ってきた男だ。本気になった時に纏う空気には、息子の雪人でも未だに唸ってしまうものがある。
「ご安心を。妻を貶めるような噂を流す輩を、このまま放ってはおくことはしませんから」
父が頷いた。
「清須川家……ですか」
「妹が家に残り、姉が嫁に出る家とな。千代さんは、結納金で白無垢だけを誂えたそうだ。箪笥には三枚の着物しか入っていないらしい」
雪人は一瞬だけ目を見開き、次の瞬間には「初耳ですね」と冷たい光を宿す。
「さて、由緒ある横濱の大木は、どの部分まで腐っているのか」
枝か幹か……それとも根からか。
「何かあれば私も力を貸そう。彼女は……千代さんは一乗家の嫁だからな」
善路の千代を気に入ったと同義の予想外な言葉に、雪人は「さすが彼女だ」と嬉しい苦笑を浮かべた。
◆
それから数日後。朝、いつも通り千代が雪人に「いってらっしゃいませ」と告げて一時間後。ちょうど善路に朝の薬を届けに行こうとした時、突然の来客があった。
「こんにちはぁ、お姉さま」
「あ、茜!? どうしたの、急に」
「お姉さまに会いたくて来ちゃった」
一乗家の扉を叩いたのは茜だった。
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