やはり知ってましたか
「彼女は間違いなく俺の妻の清須川千代ですよ。ただ……例の『清須川のチヨ』ではありませんがね」
父は鼻からふうと強めの息を吐いた。そこには『やはりか』という納得と、『どうして』という猜疑が滲んでいた。
「やはり、父さんもあの噂を知ってたんですね」
「当然だ」と、父の眉がひくりと微動した。
雪人は腕を組み、背後の障子に背中を預ける。近くに人の気配はない。
「それでも結婚を許したのは、俺を試すためですか」
「馬鹿正直に毒婦を掴むのなら、そこまでの男だと思っただけだ」
「そして、公私共に父さんの息のかかった者達を俺の近くに置く……ですか?」
父は鼻で笑った。
「馬鹿に会社の舵取りは不可能だからな」
雪人も片口をつり上げ、自信満々の笑みを返す。
「ご安心ください。彼女は《噂の彼女とは別人ですよ」
「ほう、いやにはっきりと言うな。根拠でもあるのか」
ええ、と雪人は頷いた。
ちょうど今日、再び噂について調査させていた忠臣から報告があったのだ。
『社長、あの噂についてですけど、実際に千代という女性と会った男を見つけましてね。話を聞くことができました』
よくやった、と雪人は忠臣を手放しで褒めた。
以前、婚前に彼女のことを調べた時は、一週間程度で集めた情報だった。しかし、今回は三ヶ月もかかっていた。噂話ではなく、実際に彼女と関わった者を探していたのなら頷けた話だ。
忠臣が話を聞いた男というのは三人いた。
ひとり目は、中折れ帽子をかぶった若い男。
二人目は、眼鏡が似合うひとり目の男の友人。
そして三人目が、千代――噂の女と実際に遊んだ男だ。
帽子の男は以前から噂を知っており、また何度か夜の喫茶店で彼女を目撃していた。二人目の眼鏡の男は一度しか噂の女とは会ったことないが、それでも随分と印象的で覚えていると言った。
二人が言うには、噂の女は帝劇女優のように華々しくも清楚で美しかったという。群がる男達と軽やかに会話を弾ませ、その様子はまるで夜に咲く白い月下美人のようだったと、褒めちぎっていた。
洋装がとても似合っており、近づくとまずおしろいだろうか、化粧と甘い香水の匂いがしたという。香水など稀少なものをつけられる者は限られている。
男達はチラっと清須川家の令嬢だという噂も小耳に挟んでいたが、この香りで納得したそうだ。
普段、千代は薄化粧で目立ちにくいが、全体的に整った顔立ちをしていた。化粧を濃くすればきっととても美しく映えるだろう。千代が変装の一環で化粧を濃くしていたとも考えられるが、それだったらば自らチヨなどと名乗るまい。
それに、結納の時も祝言の時も、結婚してからも彼女から甘い香水の匂いなど感じたことはなかった。化粧の匂いは洗い流せば誤魔化せるだろうが、記憶に残るくらいの香水の匂いは風呂に入った程度では消えない。肌に染みついて、微かにでも残るものだ。石けんの淡く澄んだ香りなど、簡単に負けてしまうくらいには。
そして、三人目の証言が一番ありえなかった。
三人目も基本的に前の二人と同じことを言っていたが、ひとつ気になることを言っていたという。情事の最中、汗でぬれた彼女の頬を指で拭った時、化粧の下からほくろが現れたように見えたという。
千代にほくろなどない。
それは、化粧姿も湯上がり姿も確認したことがある雪人が一番知っている。
『あと、実は聞き込みをしている時、ちょうど噂の女と出くわしたんですよ』
『なんだと……! もちろん千代じゃなかったんだろう?』
『自分は社長の奥さんと会ったことないんで、わかりませんよ』
それもそうだと思ったところ、忠臣は『ただ』と何か気掛かりだと言わんばかりに目を細める。
『どうも玄人の女くさいんですよねぇ。ひと言二言、試しに話しかけてみたんですがね、男あしらいに慣れてる匂いがぷんぷんしたんですよ』
『玄人?』と、雪人は眉間に戸惑いを滲ませた。
忠臣の言う玄人の女というのは、男の夜の相手をする女のことだ。
玄人が素人の真似をして値をつり上げるという話はよく聞くが、素人が玄人のふりをしてという話は聞かない。それだけ素人が玄人の真似をするのは難しい。ましてや、初夜で石仏並みに固まっていた千代には、到底無理な話だ。
『その女とどんな会話をしたんだ』




