頬が熱い
すると、コンコンと戸をノックする音が、二人の間に割って入った。
「雪人様ー、夕食の準備が整いま――」
「すっ、すぐ行く!」
戸の向こうから聞こえたナリの声に被せて、部屋の外にも余裕で聞こえるだろう大声で返事して足早に入り口へと向かった。
「あら、奥様もこちらにいらっしゃったんですね」
「あ、ああ、ちょっとな」
ナリと雪人が何か会話していたが、千代の耳にはまるで届かない。
(き、綺麗って……き、聞き間違いかしら……)
目を閉じれば、先ほどの雪人の顔が思い出される。しまったとばかりの顔をしていた
(すごいって……褒められちゃった……)
自然と頭に手が伸びた。
誰かに頭を撫でられたのはいつぶりだろうか。
頑張れと応援されたことなどあっただろうか。
「……っ」
千代はじんじんとする頬を両手で包み込んだ。
(熱い……)
胸の内側がドクドクと騒がしかった。
◆
「い、いぃい行ってらっしゃいませ、雪人、っさん」
「っあ、ああ、行ってくる……ち、千代」
互いにあらぬ方を向いているため、鞄の受け渡しにことごとく失敗している千代と雪人を、傍らからナリが瞼を重くして眺める。
「……お二人とも何してるんですか」
千代と雪人は「何も!」という異口同音に声を重ね、やっと鞄の受け渡しに成功した。
玄関の扉がパタンと閉まると、千代はふぅと、ひと仕事を終えた感じの息を吐いた。まだ朝もはじまったばかりだというのに。
(な、なんだか昨日から雪人さんの顔を見ると恥ずかしくなっちゃって……どうしたのかしら。初夜の後……よりも、今のほうが恥ずかしいだなんて)
無事に見送りができた千代は、熱くなった顔を手で仰ぎながら台所へと向かう。
その背に、「おっくさまっ!」と独特な抑揚でナリの声が掛かった。跳ねるようにして隣にやって来たナリは、にまにまとニヤついた顔で千代を眺める。
「奥様ぁ~もしかして、雪人様と昨夜仲良しだったんですかぁ~」
「え? 仲良し?」
昨夜は別に何もなかったはずだが。
いつも通り、風呂に入った後は雪人の部屋を訪ね、「おやすみなさい」と挨拶をしてから寝室へと入るのだが、特に挨拶の時に仲良くした覚えもない。違うことと言えば、少し照れくさく、挨拶がいつもより控えめな声になってしまったことくらいか。
「うん?」と天井を眺めて頭に疑問符を浮かべる千代に、ナリが噴き出すようにして笑った。
「あっはは! 奥様ってば本当可愛いですね」
「か、可愛い!?」
その言葉――美しいや可愛い――は、自分への言葉ではなく、すべて妹のための言葉だったのに。昨日から一体なんなのか。
「か、揶揄わないでください、ナリさん」
「揶揄ってませんよ、本心ですもん」
しれっとして言うナリに、千代は気恥ずかしくなり顔を俯ける。
「あたし、実は雪人様が結婚するって聞いた時、本当は嫌だったんです」
思わず千代は足を止めてしまった。あわせて、ナリの足も止まる。
「今まで……っても、一乗家が横濱に来てから雇われたんで、東京にいた頃は知らないですが……何度か雪人様が女性を屋敷に連れてきたことがあったんです」
「そう……なんですか……」
袖の中で拳を握ってしまった。
「あ、勘違いしないでくださいね、奥様。雪人様が積極的に連れてきたってより、あの様子だと女性のほうが無理言ってついてきたような感じで……多分、雪人様に懸想していた取引相手のお嬢さんとかだったんでしょうねえ」
相手の女性の姿が、容易に想像できてしまった。きっと流行りの洋服とか着た、雪人の隣がよく似合う素敵な女性だったのだろう。
「な、なんだか申し訳なくなりますね。私はほら、この通り地味ですし……」
「あーっ、違います違います!」
ナリは頭をブンブンと横に振り、ガシガシと頭を掻いた。
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