これじゃ猫の主人になっちゃう
千代は、雪人から書庫を自由に利用しても良いという許可をもらい喜んだのだが、前回のような失敗――うっかり寝こけて出迎えを忘れる――を繰り返さないために、自重していた。
書斎の本が魅力的なものばかりで、ともすると寝ないにしても夢中になってしまいそうなのだ。
「これじゃ、『吾輩は猫である』の主人みたいだわ。まあ、本に涎は垂らさないけど……多分」
夏目漱石が書いた『吾輩は猫である』の猫の主人は教師であり、彼は学校から帰ると書斎へと入ったまま中々出てこない。家族には勤勉家と思われているが、実際のところ、本を読みながら昼寝をしたりのんべんだらりしているというものだ。
千代は今すぐ書庫に行きたい衝動を抑え、普段女中達がいることの多い台所へと向かった。
「え、奥様ができることですか?」
このまま自由を与えられていたら、間違いなく書庫に入り浸ってしまうという自覚があった。だから、自由を強制的に減らせるような仕事をしたかったのだが、やはりミツヨ達は困った顔をしていた。
「落ち着かないといいますか、私だけ何もせずというのが心苦しくて……」
これは本当だった。
茜が妹になってからは、自分のことだけでなく母の看病までしてきたのだ。母が亡くなってからも、母が担っていた清須川製糸の事務仕事をそのまま千代が引き継いでいた。
必要な資料を集めたり、取引先や関わりがあった者へ手紙を出したり、父への郵便物の仕分けをしたりと、経営に直接関わっていたわけではないが、細々《こまごま》と常に忙しかったように思う。
それが突然、優雅ともいえる生活に切り替わり、何もしない状況というのが不安になるのだ。
「一乗家に嫁いだ身ですから、何か皆様のお役に立てたらなって」
「奥様って変わってるって言われません? 昨日は無理してるのかなって思ったんですが、もしかして本気で手伝いたいって言ってました?」
「え、ええ、もちろんですが」
千代が不思議そうに首を傾げれば、「はぁ~」とナリが感嘆の声を漏らした。
「普通、良いところのご令嬢は自ら働こうなんてしませんよ。ましてや、手伝いたいって女中になんか声掛けませんって」
千代と同い年の彼女は思ったことは口に出してしまうタイプのようだが、明朗さゆえに嫌な感じはしない。年上の桂子が手で「ちょっと」と口をつぐむよう注意していたが、大丈夫なので気にしないでと、千代は手を振り微笑む。
「確かに、私はちょっと変わってるのかもしれません」
女学生で働いていたのも自分くらいだったし。あの時は、先生達が働いていることを隠してくれて、同級生達にはただの本好き故に図書室にいたと思われていた。
そこで、千代は台の上に置いてあった盆に気付いた。白湯と薬包が乗っている。
「あら、これってもしかしてお義父様のお薬ですか」
確か、善路は肺を患っていたという話だ。
ミツヨの「ええ」という返事を聞くや否や、千代はぱっと顔を明るくし、盆を両手で持った。
「これ、私に届けさせてくれませんか」
「ええ!?」と桂子とナリが異口同音に声を上げる。
「祝言の時に少し言葉を交わしていただいただけで、それきりでしたので。もっとお義父様のことを知りたいと思っていたんです」
正直千代はまだ善路についてわからないことだらけだった。
顔は雪人に似ていたが、纏う雰囲気は真逆だった。雪人が薄氷のような洗練された空気の持ち主だとすると、善路は患ってはいても曲がることのない背筋と逞しい体躯から、滾るような雄々しさを感じた。
(それに、お義父様には距離を置かれているように感じるのよね)
祝言で言葉を交わした時、義父は自分との会話を最低限にしようと努めているような雰囲気があった。病気のこともあるから、自分に時間を割いていられないのだろうと思っていたが、その後父や茜とは色々話していたから、単純に自分との会話を避けられていた可能性もある。
桂子とナリがチラチラと困ったように目配せし合っていた。
「で、でも……奥様は大旦那様にはあまり近寄らないほうが――」
「大旦那様は一日に二度、朝と夕にこの薬を白湯で飲まれます」
今まで黙っていたミツヨがナリの言葉を遮り、千代の前に一歩進み出た。




