悪女の婚約破棄
清須川家の客間。
畳敷きの部屋には、一組の若い男女が向かいあって座っていた。
上座に座るのは、洋装――スーツを着た身なりのよい男。彼は二井勇一郎といい華族の次男坊である。焦げ茶の髪は綺麗に額の真ん中で分けられており、彼の二十三という年の割には幼げな顔貌を露わにしている。
対して、下座に座る女は地味な着物をまとい、長い黒髪を結い上げもせず、首後ろで一つに結んだだけである。一見すると使用人のように見える彼女だが、名を清須川千代といい、れっきとした清須川家の長女だ。歳は二十だが、化粧の施されていない疲労が色濃く出た顔では、勇一郎よりも年上に見えた。
二人は婚約者という関係であったが、今の二人の間には甘い空気は一切ない。それどころか、部屋には肌の表皮がチリと緊張するような空気が満ちていた。
突然訪ねてきた勇一郎に、千代は困惑した目を向ける。
婚約者といっても家同士が決めたことであり、三年前の婚約から二人が会ったのは数えるほどしかない。その数少ない機会も彼が積極的にということはなく、季節が変わるごとに、義務感から一応様子見に来ている程度のものだった。
だから、前回から一ヶ月も経たずに訪ねてきた勇一郎を、千代は不思議に思っていた。
「千代、君は洋書を読むそうだね」
先に口を開いたのは勇一郎だった。
「え……は、はい。学生の頃はよく女学校の図書室で読んでおりましたが……」
「ふんっ」と彼は鼻で嗤った。
「女がそんなもの読めたところで役には立たないというのに。無意味なことに時間を費やせて全く羨ましいもんだ。洋書が読めるから自分は賢い人間と言いたかったのかい? なんて賢しくて可愛げがないのか……ああ、もしかして会社の経営に自分も口出ししようとでも?」
「いえ、決してそのようなことではなく……」
彼が千代に冷たいのはいつものことなので気にしていなかったが、なぜか今日はやたらと威圧的だ。
この婚約は、華族の二井家から是非にと申し込まれたものである。
父はかねてより華族との繋がりをほしがっており、この縁談は渡りに船だった。
清須川家は士族である。
先代――千代の祖父が興した紡績業で財を成し、今や横濱では名のしれた家となっている。しかし父は男児に恵まれず、子は千代と四つ下の妹の二人だけであり、家の存続のためには長女である千代が婿養子をとり、婿養子が家と会社の両方を継ぐ必要があった。
つまり、千代と結婚した男が、清須川家と清須川製糸の跡継ぎとなる。
それがわかっているからこそ、今まで勇一郎は素っ気ないことはあっても、千代に嫌われる恐れのある態度はとってこなかったというのに……それが今日はどうしたことか。
「残念ながら、君が会社に関わることは一生ない。それどころか、この家にもだ」
「え」
彼の言っている意味がわからなかった。
会社に関わるなというのは理解できる。しかし、家に関わるなとはどういうことだろうか。目を丸くして呆気にとられている千代を見て、勇一郎は再び鼻で嗤った。
「ははっ! 君はそんな演技もできるのか。見事に騙されていたよ」
「演技? 騙す? あの、仰っていることがわからないのですが」
「この期に及んで白を切るか。とんだ悪女だな。あいにく、僕はそんな不誠実な者を妻にしたいとは思わないんだよ。元より、君のことを一度たりとも愛しいと思ったことはないがね」
「ですから、先ほどからなんの話を――っん!」
突然、卓に身を乗り出した勇一郎に、千代はグッと顎を掴まれた。引っ張られるように掴まれ、首が抜けそうだ。
「バレないと思ったのか、悪女め。どれだけの男に股を開いてきたんだ?」
頭が真っ白になった。
悪女? 股を開く? 誰が? 意味が何ひとつ理解できない。
「君との婚約はこの場をもって解消する。安心しろ、僕が清須川家に入るのは変わらない」
立ち上がった彼は、閉じていた障子に手を掛ける。そうして障子を開けると、その向こうの廊下には妹の茜が佇んでいた。
「ただ、僕の相手は君ではなく、彼女だけどな」
彼は自然に、まるで何十回とやってきたような動きで茜の肩を抱き寄せた。
茜は勇一郎に身を寄せつつも、申し訳なさそうに視線も眉も下げている。
千代と違い身に纏うのは、赤矢羽根に大きな白薔薇が描かれた流行りの着物。
姉妹だというのに、茜の顔は綺麗に化粧が施され、髪もマガレイトと丁寧に結ってあり、少しも千代と似ていない。




