そして君の名を刻んだ
『すまない! 俺がいたから帰れなかったんだろう』
女学生をこんな時間まで拘束してしまった。自分の落ち度だ。
焦る雪人に、しかし千代は緩く首を横に振った。
『いえ、お気になさらず。むしろ、早く家に帰らすに済んだといいますか……』
どういう意味かと思ったが、彼女の苦笑顔からは突っ込んでくれるなという気持ちが伝わってきて、雪人は聞き返すことはしなかった。
実は途中でレオンが様子を見に来ていたようで、自分は気付かないほど集中していたらしい。他人がいるのに、あんな心地良い空間は久しぶりだった。
『ありがとう。とても……良い時間だった』
『それは良かったです』
目的の本を借り、急いで図書室を出た。
図書室を施錠して職員室へと向かう彼女の背に、声を掛けた。
掛けて、話題も何もないのに何をしているんだと後悔した。しかし、呼び止めた手前何か話さなくてはと思った。
『君、名前は……っ!』
彼女は一瞬逡巡した素振りを見せ、しかし笑顔で返してくれた。
『チヨです』――と。
手にした建築書を眺め、雪人は『チヨ』と呟いたのだった。
◆
その時手にしていた本を、彼女が――千代が今手にしていた。
「……君は忘れているようだが、俺は今でもはっきり覚えているよ」
雪人の手が、千代の頬に柔らかく、宝物にでも触れるような丁寧さで触れた。
きっと、後ろにいるミツヨが今の雪人の表情を見たら、目を皿にして驚くだろう。
東京では名の知れた実業家である一乗家の跡継ぎとして、幼い頃から自分が周囲の目にどのように映るか考えて行動してきた雪人は、一代で財と地位を築き上げた父に負けないようにと厳しく自己を律してきた。そんな彼は、家族の前でもなかなか笑顔を見せることはなく、他人――ましてや女性に対して甘い顔など一切したことなかった。
それが今は、誰にも見せたことがないような、砂糖菓子のように甘くふわりとした笑顔で、千代を見つめている。
「んっ」と千代のまつげが揺れ、雪人は慌てて手を離す。
そして、千代のまぶたがあげられたのだが……。
「――っゆ、雪人様! あっ、私ったらいつの間に眠って……も、申し訳ありません、勝手に書斎に踏み入ってこのように……!」
千代は目を瞬かせた後、雪人の姿を認めると顔を青くして、床にひれ伏そうとした。しかし、その行動は雪人の手で止められる。
「気にしないでくれ」と、雪人が千代の肩を止めていた。
「千代さん、本が好きか?」
千代は雪人の質問に首を傾げつつも、はいと答える。
そうか、と嬉しそうにはにかむ雪人に、千代はドキッと胸を高鳴らせた。
「この部屋は本好きの父が作った書斎で、今は俺が使わせてもらっている。父と俺とで集めた本だが、興味がある本があれば千代さんも使ってくれて構わない」
「い、良いのですか?」
千代の表情が明るくなる。
「ああ、好きなだけ読むといい」
清須川では、女が本など読むなと言われ、学校を卒業してからは本には触れられなかったというのに。
「ありがとうございます……! 嬉しいです」
また本が読める嬉しさに、千代は満面の笑みで感謝を述べれば、雪人はふいとそっぽを向き、ゴホゴホとまたいつぞやのように咳き込んでいた。
そこで、千代は部屋の入り口にミツヨがいたことに気付いた。
ミツヨは咳き込む雪人を目を丸くして見つめていた。やはり、病気かと驚いているのだろう。
「あの、雪人様、どこか具合が悪くてらっしゃるのでしょうか」
「い、いや……うん。具合は大丈夫だ」
ミツヨがぼそりと「具合は……ですか」と呟いていた。
「ん゛んっ……ミツヨさん。支度は千代さんに手伝ってもらうから、もう戻ってもらって構わない。夕食の準備があるだろう」
ミツヨを顔だけで振り返った雪人の目は、瞼が重たくなっていた。
ミツヨは「んふふ」と気持ちの悪い笑みを残して部屋を出て行く。
足音が遠ざかるのを確認した雪人は、咳払いしながら立ち上がると、千代に手を差し出した。
「さあ、二階へ行こう。着替えを手伝ってくれ」
「はい、雪人様」
千代がそっと確かめるように手を乗せると、一瞬だが雪人の頬に朱がさす。
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