君は覚えているかな
部屋の正面に置かれた机の奥、壁に寄りかかるようにして床で千代が眠っていた。
雪人の後ろから部屋を覗き込んだミツヨが、「あらあら、こんなところで」と千代に元に駆け寄ろうとするが、やはり雪人が手で制する。
起こさないよう足音を立てず、雪人は静かに千代に近づく。そうして膝を折り、彼女と同じ目線の高さでじっと寝顔を見つめた。雪人の手が、顔にかかる千代のさらりとした髪を優しく耳に掛ける。
「……やはり面影があるな」
すやややかな顔して眠る彼女は、まるで少女のような無垢さがあった。
ふと、彼女の膝の上に置かれていた本に気づく。
「本を読んでいるうちに寝てしまったのか」
本を手にして、雪人は瞠目した。
それは、雪人にとって生涯忘れ得ぬ思い出の本。
『彼女』を忘れられなくなった、すべてのきっかけの本。
◆
それは、雪人がまだ二十歳で、東京の大学に通っていた頃。
学校に通っていた者には、やはり華族や士族、昔から事業を営んできた社長子息などが多く、雪人は父が興した事業で偶然成功しただけの成り上がりだと、よく同級生からは揶揄するような目を向けられてきた。家格もなく、血統に歴史もない。やっかみだとはわかっていても、やはり雪人も引け目に感じないことはなかった。
早く大人になりたい。
早く一人前になって、誰に何も言わせないほどの結果を出したい。だから、雪人は知識をつけるために、様々な書物を和書洋書関係なく読みあさった。
その中で、父の仕事の関係で知り合った『レオン』という外国人教師を頼ることもしばしばあった。
東京で知り合ったのだが、後に彼は横濱の女学校で教諭をすることになったと言って、横濱に越していった。しかし、その後も雪人は時折レオンと連絡をとっては、外国の情勢や洋書について教えてもらうという関係が続いており、今やすっかり親友といえる仲になっていた。
その日、雪人は彼を頼って、横浜の女学校まで訪ねていた。
『それで、何を探しにわざわざ横濱まで僕を訪ねてきたんだい、雪人。大学の図書館にはない本なのか?』
『大学の図書館には経済論や法律書なんかの、経営に役立ちそうな本はあるんだが……』
彼の勤め先の女学校の廊下を、二人並んで歩く。放課後だからか、女学生の姿は見られない。
『あれ、そういったのを探してるんじゃないんだ。珍しいね、どんなの?』
確かに、今まではそういった本を主に読んできた。だが、息抜きに違う分野の本を読んだら、意外とはまってしまったのだ。
『ジョサイア・コンドルの建築書を……』
彼の、英国のヴィクトリア朝を基調としたデザインの中に、日本の建材や意匠を見事に融合させた今までになかった建築物は、見ているだけで様々な可能性を想起させてくれた。
入り口はもしかしたら、「平民如きが」と周囲に可能性を否定されてきた自分と、無意識のうちに重ね合わせたからかもしれないが、結果的にどんどんと建築に魅了された。
ああ、とレオンは手を打った。
『確かに、彼は有名な建築家だね。鹿鳴館なんか僕も素晴らしいと思うね。確か、うちの図書室にはそっち関係の本もあったと思うよ』
『大学よりも品揃えが良いって……どうなってんだよ、この学校は』
『良いってわけじゃないよ。洋書に関しては僕に任せられてるから』
『ああ……レオンは昔から興味の多さに関しては一流だったな。そのうち、女関係でも同じようなことやらかして刺されそうだ』
『やめてくれよ。僕は女性に対しては紳士で一途だよ。それよりも――』
レオンの指が、雪人の目元を隠す伸びた前髪をさらりと払う。
『君はもう少し身だしなみに気を遣ったら? もったいないよ、せっかく綺麗な顔してるのに。眼鏡もそれ、伊達だろ?』
雪人はやんわりとレオンの手を払い、頭を振って前髪で再び顔を隠す。
肩口まで伸びきった長髪は結ぶこともせずに垂らしたままで、前髪もすだれのようだ。さらにその下には度が入っていない眼鏡もあり、口元でしか雪人の表情はわからなかった。しかも、雪人は感情をあまり表に出さないため、その口元からすら読み取れる情報はほぼない。
『はぁ……その詰め襟の制服がまた黒っていうのもね。全身真っ黒くろじゃないか』
『こっちのほうが、女が寄ってこなくて都合が良いんだよ。俺は勉学に集中したいってのに、あれが欲しいだの、あそこに付き合えだのと……女とはああもかしましいものか』
学友との付き合いが嫌いというわけではない。ただ、そのたびに彼らの知り合いだという女を紹介されるから、煩わしいのだ。




