書斎でのひととき
壁を覆い隠すほど大きな本棚が、部屋の左右それぞれにあり、本がびっしりと並んでいた。正面には机と座り心地の良さそうな椅子があり、この部屋が書斎だろうことがうかがえた。
誘われるようにして、ふらりと千代は部屋へと入る。
「すごい……洋書まであるわ」
本棚に並んだ背表紙は日本語のものもあれば外国語のものもあった。どうやら本の種類に規則性はないらしい。書斎の主は乱読家のようだ。
「本なんて久しぶりに触るわね」
清須川家にも本棚はあったが、これほどの規模のものではない。それも、父の部屋に置かれていたため、自由に手に取ることもできなかった。
「お父様は、女の人が本を読むのすら嫌がったから……」
ふと机を見ると、無造作に一冊の本が置かれていた。英語の題字で、どこか見覚えがある。
「イギリスの建築書かしら」
手にしてまじまじと眺めていると、記憶がよみがえってくる。
「そうだわ。同じ本が学校の図書室にもあったわ」
当時のことを思い出し、千代の表情は柔らかくなる。
あの時間は、千代にとって唯一心安まるものだった。
千代は女学生時代、通っていた学校の図書室で、司書手伝いとしてい働かせてもらっていた。授業が終わり、学生たちが帰りに喫茶店やキネマ館に行こうと言いながら、賑やかに退校していく中、千代はひとり図書室で静かに本を読んでいた。本の整理をしたり、事務仕事をしたりと、それが終わればあとは自由だった。
意外にも、授業終わりに図書室に来る学生はほぼいなかった。司書の先生は、朝や授業の合間に借りに来る生徒が多いと言っており、皆やはり早く帰りたかったのだろう。
自分と違って。
「そういえば……一度、誰かと一緒に、暗くなるまで本を探したこともあったかしら」
あれは誰だっただろうか。もう五年も前のことで、記憶がはっきりとしない。先生だっただろうか。目当ての本を無事に見つけることができ、最後に「ありがとう」と言われたことは今でも覚えている。役に立てたことがとても嬉しかったのだ。
千代は手にした本をパラパラとめくり、ゆっくりと文字を目で追っていく。
朗らかな日差しが注ぎ込む暖かな部屋。ページをめくる紙の音と遠くで聞こえる鳥の声。千代はすっかりと久しぶりの本に夢中になっていた。
◆
「あら、雪人様。いつもよりお戻りが早いですね」
空が茜に色付く頃、仕事から帰ってきた雪人を出迎えたのはミツヨだった。
雪人はミツヨの言葉に決まりの悪そうな顔で、「新婚なんだから早く帰れと、臣に無理矢理会社を追い出されたんだ」と口角を下げて言った。
ミツヨは「まあ」と雪人の様子に目を丸くしたが、すぐにクスッと小さな微笑を漏らす。
「それで素直に戻ってこられるということは、雪人様も早くお屋敷に戻られたかったというわけですね」
今まで――特に善路から会社を継いでからは、仕事に心血を注ぎ、付き合っている女性が屋敷を訪ねてきていると連絡しても、忙しいからの一点張りで構おうとしなかったという彼の変化に、ミツヨは喜ぶと一緒に揶揄いも向ける。
揶揄われていると知りつつも、昔から面倒を見てもらっているミツヨには強く出られず、雪人は口角をさらに下げるばかり。
「それより、千代さんは一日どうしていた?」
「奥様ですか。ふふ、もしかすると奥様はじっとしているのが苦手なのかもしれませんね。朝も昼も何か手伝うことはないかと、私達を見つける度に声を掛けてくれていましたよ」
普通の女ならば、きっとそのようなことは言わないだろう。
しかし、彼女ならば安易にその場面が想像でき、雪人は小さく頷いた。
「あら、そういえばその奥様が来ませんね……雪人様の帰宅に気づいてないのでしょうか。ちょっと呼びに――」
「ああ、いやいい」
踵を返して、千代の部屋に向かおうとするミツヨを雪人が止めた。
「義務ではないからな。慣れないことばかりで疲れて寝ているのかもしれない。俺が様子を見に行くよ」
「まあっ」とミツヨはやけに嬉しそうだ。何だというのか、まったく。
鞄を受け取ろうとするミツヨの手を断り、ひとまず二階ではなく屋敷の奥に位置する書斎へと向かう。
「追い出されると一緒に仕事も持たされたんだよ。しかも、面倒なやつ。ったく……これじゃ、早く帰れても意味がないだろうに。書斎に寄ってから彼女の部屋に行くとするよ」
「左様でございますか」
不思議な目を向けてくるミツヨに説明するように言いながら、雪人は書斎の扉を開けた。
「は……?」
そして、最初に目に飛び込んできた光景に、思わず息をのんだ。




