第17話 あっけない幕切れ
いつまで待てどもハルゲンに戴かれた冠が奇跡を起こすことはなかった。
……もしや失敗なのか。
ハルゲンは神の代弁者として選ばれなかったのだろうか。
観衆の間にそんな不安が広がり玉座の間がにわかにざわつき始める。
(……どういうことだ、ダンテ)
ハルゲンはダンテを睨み付ける。
この事態は彼の裏切りなくしてはあり得ない。
ではなぜ裏切った?
この男は金や名誉で動く人間では無い。考えられるとしたらオクタビオが自分と同じく女で釣ったということだが、果たしてエスティアナから鞍替えするほどの女がそう易々と現れるだろうか?
(思い当たるとしたらオクタビオが連れてきたあの自称女神の女くらいしか……)
確かに彼女は美しかった。しかし彼女があのオクタビオの側にいるという時点でお手つきにされているであろうことは明白だ。女としての価値でエスティアナが劣るとはとても思えない。
ハルゲンの睨みを躱すようにダンテは目をつぶり沈黙を保った。
進行役である彼が黙ってしまえば当然儀式は止まってしまう。
観衆のざわめきはさらに増しハルゲンを嫌な緊張感に晒す。
それでもダンテは沈黙を貫いた。
彼は何かを待っているようであった。
まるでこの儀式の進行は既にその誰かの手に委ねられているとでも言うように。
「おお、これはなんと嘆かわしいことだ! まさか我らが不在の内に無断で儀式を執り行ってしまうとは。きっと女神シュトレアも憤慨されていることでしょう。」
そして本命たる役者の声が玉座の間に響き渡った。
「その結果がこれとは……。この責任をどう取るつもりか、ハルゲン・グレーザー!!」
オクタビオ・ガザレスは優雅に歩みを進めながらハルゲンを責め立てる。
演技過剰とも思える口調だったがその場に白ける者はいない。
新たな神の代弁者となるはずの者が神の祝福を得られなかったという不安。そしてその不安を払拭してくれるかもしれない乱入者に人々は縋るような視線を向ける。
「聞くがいい、みなの者! この男は女神の定め給うしきたりを軽んじた。神の代弁者たる資格をもつのは我かハルゲンか。まだその裁定は下されていないというのに、この男は資格を持たぬまま戴冠に与ろうとした不届き者なのだ!」
オクタビオはハルゲンの非を並べ立て、いかに彼が不正な手段でこの場にいるのかを知らしめる。
ハルゲンはしかし、すぐに反論にでることはしなかった。
言葉で否定することは可能かもしれないが、それだけでは儀式の失敗を取り返すことはできない。
何か打開策はないか。ハルゲンは必死に頭を回転させる。
しかしこの場での沈黙は悪手であった。
「――ならば、グレーザー卿にその資格がないのだとしたら必然的にその資格はオクタビオ、卿に移ることになるかのう?」
示し合わせたかのようなタイミングでダンテが切り出した。
「教皇の座を争った二人のうち、一人が資格無しと示された。ならば他に資格を持つ者はガザレス卿ただ一人じゃ。この神聖なる場でそれを証明する覚悟がお主にはあるかのう?」
「もちろんです。この瞬間のためにすべてを捧げてきたのですから」
「なっ――貴様!! 自ら投票を拒んだ分際で、どの口が資格などと語るのか!!」
もはや策など考えている場合ではないと判断したハルゲンはとにかく相手の流れに乗るまいと水掛け論となることを承知で割り込んだ。
「俺が正式な手順を踏まなかったことは認めよう。だがその点を持って非難するというのならお前とて同罪だ! 冠を戴く資格を持つ者などこの場にはいないことになるのだぞ!!」
「確かにグレーザー卿の言にも一理ある。しかしここで幕切れとするのは本当によいのだろうか? 新たな教皇の誕生に希望を抱いていた人々はいま戸惑いと不安に襲われていることだろう。儀式が絶対のものであるという信頼が揺らいでしまったのだ。このままでは女神への信仰そのものまで揺らぎかねないのではないか?」
「その信頼を取り戻すのが自分だとでも言うつもりか!? そもそもお前が投票を拒否しなければこのような事態にはならなかったのだ!!」
「そう……その通りですグレーザー卿」
オクタビオは嬉しそうに微笑んだ。
もっとも望む言葉をもたらしてくれたハルゲンに感謝を述べるかのように。
「我は何よりも大切なはずの教皇選挙への参加を拒んだ。それは何故か? 悩んでいたのです。果たしてこれから我が成そうとしていることは女神の御心に沿うものなのかと――」
なぜ投票を拒んだのか。――なぜそこまでして教皇の座を求めるのか。
「だが、もう我は悩まない。鋼のごとく決意を固め、決して引かない覚悟を持ったことの証としてここに宣言する――」
そしてオクタビオの欲望が世に解き放たれる。
「我は他種族との融和を望む!! 古の神々の戦いから幾千年。古き神に味方した他種族を我らは迫害してきた。すでに古き神は死に絶え、世界がシュトレアの愛に包まれた後もずっと。だがそれは果たして女神の意思なのだろうか? 我はそうは思わない。聖典にはそんな言葉は一言も記されていない。敵であったから迫害してよいなどと決めつけたのは人自身の傲慢に他ならない。だからこそ我はこの連綿と続いてきたその悲しい歴史に終止符を打つのだ!!」
オクタビオの演説を聴き玉座の間は静まりかえっていた。
みな彼のあまりに過激な言動に言葉を失ってしまったのだ。
亜人の迫害はシュトレア教徒ならば誰もが幼い頃から教えられる教義の一つであり、その考えはもはやアイデンティティを構成するものの一つとして身に染みついてしまっている。
それをよりにもよって枢機卿たるオクタビオの口から否定されてしまったのだから彼らの動揺は計り知れない。
だが逆にハルゲンに心には余裕が戻っていた。
「……下手を打ったな、ガザレス。そのような綺麗事で人の心が動かせるとでも思ったか」
ハルゲンはオクタビオを嘲笑った。これほどの大仕掛けをしておいて言いたかったことが子供の偽善だったとは。
オクタビオはわかっていないのだ。人々がどれほど愚かなのかを。
彼らは自分たちの生活さえ平和ならばそれでいいのだ。信念を揺るがすような変化など誰も望んではいない。
あれだけ慕ってた聖女の不審な死にさえ声をあげるものはいなかったのだから。
ましてや彼女の真実を公表などしていたらきっと彼らは――
「仕方ありません。我の願いを叶えるにはみなの理解が不可欠なのですから」
「……本気で言っているのか?」
「もちろん本気です。我はもう二度とロスベックの悲劇のようなことは起こさせたくないのだ」
「何を……言っている?」
そこでハルゲンはある可能性に気づいてしまった。
もはやその真実を知る者は自分を除き一人しかおらず、そのもう一人は決して自分を裏切らないはずだ。
だがもし――万が一オクタビオが口を割らせることに成功していたとしたら?
「卿が愛したシューゲンの聖女ヘルミーナは亜人だった。だからその事実を隠そうとした当時の教会によって殺されたのだろう?」
再び玉座の間に大きなどよめきが起こった。
聖女ヘルミーナの名はロスベックの悲劇と共に誰もが知るものだ。
その美しくも悲しい物語がハルゲンの立場を押し上げているという側面も大きい。
そんな誰もが知る物語の裏側が明かされて衝撃を受けないはずがなかった。
「ふざけるな!! そのような妄言を弄して死者の名誉を傷つけるというのか!!」
しかしハルゲンはその言葉を全力で否定した。
オクタビオの言っていることは完全なでまかせだと一笑に付しておけばよかったものを、彼にはそれができなかった。
もし剣を持っていたならとっくに斬りかかっていたであろう剣幕でオクタビオに詰め寄り胸ぐらを掴む。
「ヘルミーナはロスベックの人々を救おうと命を賭けたのだ!! それを――それを貴様の野望のために弄ぶなど許されることではないのだぞ!!」
すかさずダンテが衛兵に目配せをして二人を離すが、ハルゲンの怒りは収まらず怒声が続いた。
「傷つける……か。果たして傷つけているのはどちらなのか」
オクタビオは哀れみを含んだ視線をハルゲンに向けた。
敵とはいえ彼の過去には同情しているのだ。
だがどうしてハルゲンはその怒りを別のものに変えようとしなかったのか。
何故ヘルミーナが亜人であるとバラすのが侮辱などと考えてしまうのか。
もしハルゲンが彼女の真実から目を逸らさずに向き合っていたなら手を取り合えていたかもしれないというのに。
「我の言葉が妄言だというのなら語って貰おうではないか。卿を除いてただ一人真実に接した者の口から――」
より一層哀れみを増した瞳を向けて、オクタビオは最後通告を突き付けた。
++++++
「うわ~……人がたくさんいますね……」
玉座の間の入り口に立ったアンナは、室内の異様な雰囲気に気圧されていた。
だがこの舞台での主役は自分ではない。
「大丈夫ですか、エスティアナ様?」
「うん……覚悟はできたから」
彼女にのし掛かるプレッシャーはアンナには想像もできなものだろう。
なにせこの衆人環視のなか父親と対峙しなければならないのだから。
『我の言葉が妄言だというのなら語って貰おうではないか。卿を除いてただ一人真実に接した者の口から――』
オクタビオの言葉を聞き、エスティアナがぴくっと震えた。
それが始まりの合図なのだ。
一度深く深呼吸をしたのち、エスティアナは歩き出した。
アンナもその後に続く。
みなの視線が一斉にこちらに向くのを感じた。
その場にロランとアマデウスの姿は見えないが衆人に紛れて万が一に備えていることだろう。
本来ならアンナもそちら側だったのだが、一人では不安だったエスティアナは同行を頼んだ。
「…………ヘルミーナ様は……私をあの地獄から救ってくれた聖女様は……確かに妖精族でした」
アンナの手をぎゅっと握りしめ、声を震わせながらもエスティアナはなんとか言葉を紡ぎ出した。
過去の出来事、そしてエスティアナがハルゲンの実の子供でないことまでつぶさに話し始める。
この行為はハルゲンの立場で考えるならば明らかに裏切りだ。
現に彼はあり得ないという顔でこちらを見ている。
彼はエスティアナが裏切ることなど。思いもよらなかっただろう。
あの時、エスティアナさえいなければヘルミーナは自身の傷を治すことができたはずだったのだ。
ロットレイブンの猛毒を浄化し、放たれた炎からエスティアナを守り抜くためにヘルミーナはすべての魔力を費やし、そして死んだ。
エスティアナの命はヘルミーナの犠牲のもと成り立っているのだと呪いのようにハルゲンは教え込んだ。
エスティアナはハルゲンから大切なものを奪ったのだという思いを徹底的に刷り込ませた。
「だと言うのに……お前はまた奪うのか? ヘルミーナだけでは飽き足らず復讐の機会まで奪うというのか……」
「それは違いますお父様……」
エスティアナは悲しげに目を伏せる。
確かにヘルミーナを奪ったのは自分だ。そのことはずっと負い目に感じていたし、この先もずっと背負い続けていくことになるだろう。
だが違うのだ。そんなことを話したいわけではないのだ。
「私は……人族としてのヘルミーナ様なんて知らないの! 私を助けてくれたのは妖精族であるヘルミーナ様だった!」
ありったけの勇気でハルゲンへ視線を合わせ思いの丈を叫ぶ。
いつも思っていた。思っていながらハルゲンへの負い目で言えなかった。
だが自分が何もしなくてもオクタビオがバラしてしまうとわかって、エスティアナは覚悟を決めた。
「自分が毒に犯されるのも厭わず私の解毒に努めてくれて、燃えさかる炎に身を焼かれながらも私だけは助けようとだきしめてくれて……あの人はそんな優しい妖精族の女性だったの。なのになぜ貴方は隠そうとするの!? どうしてあのときの教会の人たちと一緒になってヘルミーナ様を否定するの!?」
エスティアナが裏切ることは絶対にないというハルゲンの考えはある意味では正しかった。
確かにエスティアナがヘルミーナを裏切ることは絶対にない。
だからもしハルゲンが裏切られたと感じているならば、それはハルゲン自身がヘルミーナを裏切っているということに他ならない。
「……俺があいつらと同じだと?」
「同じだよ! だってお父様は公表しなかったじゃない! ヘルミーナ様が妖精族だから教会の人に殺されたって! 妖精族だけど、他の誰よりもみんなのことを考えてくれた優しい女性だったんだって! 他の誰がそれを否定してもお父様だけはありのままのヘルミーナ様を受け入れてあげなくちゃいけなかったのに!!」
「――っ!? それは……」
ハルゲンは言葉に詰まった。
その問いかけはハルゲン自身が過去に何度もしてきたことだった。
だがそのたびに恐怖で尻込みした。あんなに彼女を慕っていた人々がもし彼女を罵るようになってしまったらと。
ヘルミーナを失ってどん底にいたハルゲンにとってそれは想像するだけでも耐えがたい苦痛だった。
「もういいでしょ、お父様。もうヘルミーナ様を殺した人たちはいない。復讐は……とっくに終わってるんだよ」
「…………」
ハルゲンは黙して静かに目を閉じた。
『ちょっと心配だな。あなたは一人で思い悩んじゃうところがあるから』
死に際の彼女の言葉が蘇ってくる。
――もしかしたら俺は選択を誤ったのだろうか?
そんな思いが頭を過ぎる。
確かにそうなのかもしれない。自分は昔から他人を信じようとせず自分の殻に閉じこもってしまう。
案外ヘルミーナの正体を話してもロスベックの人々ならば受け入れてくれたのかもしれない。彼女の行ってきたことは下らぬ教会の教義に劣るほど小さくはなかったはずだ。それが出来なかったのは自分が弱かったからだ。
だがいまさらそれを認めてどうなる?
もうヘルミーナはいない。臆病なハルゲンの手を引いてくれる存在は永遠に失われた。
痛みを分かち合えたかもしれない人々との縁もとうの昔に切れてしまっているというのに。
「……付き合いきれんな」
ハルゲンは拒絶の言葉を吐いた。
頭では理解していても心が拒んでいた。
……いまさら信念を変えるには、彼はあまりに歳を重ねすぎてしまったのだ。
「――お父様っ!!」
「もうその呼び方はやめろ。お前との親子ごっこは今日を持って終了だ」
「よいのですか? 我が教皇の座をもらい受けて」
「……そんなに亜人と戯れたくば勝手にするがいい。家畜臭い玉座などこちらから願い下げだ」
そのままハルゲンは玉座の間を後にした。
何度も呼びかけるエスティアナに決して振り返ることなく……
その後オクタビオに対する戴冠の儀が執り行われ、聖都は祝福の光に包まれた。
第187代教皇セルシウス1世の誕生の瞬間であった。




