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救世主が男の娘でいいんでしょうか?  作者: せんと
第2章 彷徨える孤児
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第8話 初手

「それじゃあお留守番よろしくね~」

「はい、エスティアナ様もお気を付けて」

「……お気を付けて」


 着慣れぬメイド服に身を包んだアンナはグレーザー家の前に付けられた馬車に乗り込むエスティアナとハルゲンを見送る。

 望まずしてメイド服を着せられていることとなったが、誰かに奉仕するという行為自体は好きなようでその表情は意外と明るい。

 前世では病気のため常に誰かの手を借りなくてはいけなかったため、逆に自分が助けになれるというのは単純に嬉しいことなのだ。

 一方同じくメイド服を着て見送りの言葉をかけるレイラは不満そうだった。

 アンナの奴隷であることを誇りに思っている彼女にとって他の者に傅くという行為は侮辱に他ならないようだ。


「そんなに無愛想にしたらだめですよ。今ボクたちのご主人様はエスティアナ様なんですから」

「そんな――アンナ様は私が他の人間に尻尾を振ってもいいと言うのですか!?」

「え? 別に尻尾を振るぐらいはいいんじゃないですか?」

「ガーン」


 表情の変わらない顔の代わりに自ら悲しみの擬音を発して心情を主に伝えるレイラ。


「ま……まさかアンナ様は寝取られ属性なんですか!? 信じて送り出した犬耳メイドがぶくぶく太った貴族のオヤジに笑顔でお茶を出してたりしても平気で、それどころか興奮してしまうと!?」

「その光景は微笑ましくてむしろ穏やかな気分になりそうですね……。あとボクに寝取られ属性はありませんからね?」


 レイラの出す寝取られ基準はとても高かった。

 エスティアナがもし男だったら汚されたとでも訴えてきそうな勢いだ。

 どこまでが冗談なのか正直判断が付かない点は困るのだが、以前はこんなに砕けた話はしてこなかったので少しずつ距離が縮まっているのが感じられて嬉しく思う。


「な……何を笑っておられるのですか? やっぱり私が他の人に傅く姿を想像して愉悦を――」

「はいはい。レイラは他の人には渡しませんから安心して下さいね」


 まともに付き合っていると無限ループに陥りそうだったのでアンナは荒ぶるレイラをほどほどに流した。


「でもボクたちはついていかなくてよかったんですか?」


 気を取り直して同じく見送りに出ていたロディに話しかける。

 エスティアナとハルゲンは重要な会議のためにグランロンド城へと出かけていった。

 教皇選挙の日付とそれに出馬する人を決める話し合いが行われるらしい。


「出来れば付いていきたくはあるが、あそこは管轄外なのだ。城の警備は教会最強戦力の第一騎士団の任務だからな。そもそも部外者の君は城にその場に立ち会う資格すらない」

「そういうものなんですか……」


 何処の世界でもその辺の世知辛さは変わらないようだ。

 ただロディはそこまで心配しているようには見えないので一応信頼はできるのだろう。

 そもそもエスティアナが攫われた時と違って多くの人の目がある場所なのだから無茶はできないはずだ。


「どうにも出来ないことに頭を働かせても仕方ない。この時間を利用して稽古をつけてやる」


 ロディの言うとおり護衛対象がいない今が修行のチャンスなのだ。

 エスティアナがいるときは彼女にくっついていないといけないのでそれが出来ないのだから。


「はい! お願いします!」


 元気な返事とは裏腹に、とりあえず鎧の人が襲ってきても逃げ切れるくらいには強くなりたいな、という消極的目標を胸に秘めアンナは大通りに向かって歩き出すロディの後に続いた。





++++++





 グランロンド城内、大聖堂。

 まだ正中に登り切っていない太陽の光が女神シュトレアを描いたステンドグラスを照らし広い室内を幻想的に染め上げる。

 だが、そんな美しい光景に目を向けるものは現在この場にいなかった。

 それは見慣れた光景であるからというのも一つの理由なのだろう。俗な言い方をしてしまえばここは彼らの職場であり日々ここで議論を交わす彼らにとって当たり前の風景となっているのだから。

 ただ平時であれば見慣れた風景であってもそれを楽しむだけの余裕を持つ者もいただろう。日の差す角度によって微妙に色合いが変わっていくよう設計されたステンドグラスはいつ、何度見ても新たな発見を得られると言われる一級の芸術品なのだから。

 だが今、この場にいる者たちにそんな余裕を持った者はいない。


「長らく我らを導き、女神シュトレアの名の下に人族の平和と繁栄を祈り続けた偉大なる教皇インセント三世がこの世を去られた」


 ステンドグラスの真下に位置する大きな教壇に立つ一人の男が厳かに告げた。

 たっぷりと脂肪を蓄えただらしない体にオークのごとき不器量な顔という見た目が気にならないほどに男は堂々と、威厳溢れる姿でもって言葉を紡いでいく。

 彼の名はハルゲン・グレーザー。聖女エスティアナの父であり、シュトレア教会枢機卿の一人。そしてその枢機卿の中でも一大勢力を誇る帝国派を束ねる傑物である。

 建前上枢機卿たちの間に序列は存在しないのだが、この場の空気を支配するハルゲンの姿を見れば誰が強者なのかは一目瞭然だった。

 彼の前教皇への言葉は聞く者の心を揺さぶり、何人かの信仰心の厚い枢機卿は静かに涙を流す。

 だが、一方で別の表情をしている者たちも多数いた。


「これより10日間、全世界の同胞が彼の死を悼むこととなりましょう。しかしここに集まった我々にはその権利はあたえられない。我々には責任があるのです!」


 ハルゲンがその言葉を発すると場の空気が変わった。

 ここからが本題なのだと言わんばかりに聞いていた者たちが姿勢を正す。


「我らは次なる導き手を選ばねばなりません。インセント三世の後を継ぐ、女神シュトレアの意思を代弁できる素晴らしい人物を! ……よっていささか急ではございますがただ今から候補者の選定を行いたいと思います」


 ハルゲンが側に控える男に指示を出すと、大聖堂の重厚な扉が開かれ、ぞろぞろと人が入ってくる。

 その中には女性の姿もあり、男しか居なかった堅苦しい場に華やかさが添えられる。その華の一つにはエスティアナも含まれていた。

 新たな教皇を選ぶための教皇選挙に投票権を持つのは123人の枢機卿だけであるが、その候補を決めるための会議にはそのほかの人々――各地の修道院長や聖法騎士の重鎮、教国内の町の長なども参加できる。

 中でもヘリュナス大修道院長カレン・アルベラート、聖法騎士団総長ダンテ・アマートはある意味では教皇に匹敵する権力を有しており、投票権を持たずともその影響力は大きい。

 その二人には及ばないものの聖女であるエスティアナもそれに次ぐ影響力を持っていた。


 ただ彼女は『聖女』であるが故に呼ばれたというのは語弊がある。

 本来は聖女という役職があるわけではないのだから。

 立場で言えば彼女はいち修道女に過ぎないのだ。

 それにも関わらずエスティアナがここに呼ばれている理由は圧倒的な民衆の支持を持つからだ。

 現在世界で一人しかいないと言われる第五階梯の回復魔法を使うことのできる彼女はそれだけでも国宝級の存在である。本来ならばおいそれと出歩くことなど許されない立場なのだ。

 しかしエスティアナはそれを拒んだ。自分の力は苦しむ人々を助けるために授かったものであり、聖都に留まっていては他の多くの人々を見捨てることになってしまうと。

 彼女は各地の巡礼を望み、無償で傷ついた人たちを癒やしたいと訴えた。

 前教皇は最初彼女の考えを支持することはしなかった。彼女を危険に晒すのを避けたかったのもあるが、高位術者であるエスティアナがお布施をもらわず無償で治療などすれば教会のシステム自体を壊しかねないからだ。そんな教皇の反対を押し切る手助けをしたのは他ならぬ彼女の父ハルゲンだった。

 エスティアナ一人で救える者の数は高が知れており教会のシステムを壊すには至らないと教皇を説き伏せ、彼女の護衛として強力な騎士も付けた。

 そのお陰でエスティアナの望みは叶えられ、彼女の無償の好意に助けられた人々は彼女を崇め、やがて『聖女』と言う名が広がっていったのだ。


「わたしはお父様……いえ、グレーザー卿こそ次の教皇に相応しい人だと思います」


 だからこそ彼女の言葉は重い。

 たかが15の少女だと侮る者などこの場にはいない。


「身内びいきだと思う人もいるかもしれません。確かにまったくその気がないのかと言われたら……否定しきれないかもしれません。それでもお父様は私を自由にさせてくれて、たくさんの人を救う機会をくれました。だから――私はお父様を推薦したいと思います」


 権力とは無縁の彼女はこういう場に出る機会などほとんどなかったのだろう。

 慣れない敬語は崩れ気味で演説の内容もたどたどしいものだった。

 だが飾らない彼女の言葉は聞く者の心にすっと入っていった。

 ただハルゲンの、ひいてはその背後にいる帝国の思惑を知っている反帝国派の枢機卿たちは苦い顔でそれを見つめる。


「いやはや、真っ先に娘に発破をかけられるとは非常にお恥ずかしい。ですが、ここまで言われれば名乗り出ないわけにはいきませんな」


 娘が作り出した空気を壊さぬように砕けた調子でハルゲンは名乗り出た。

 エスティアナに笑顔を向ける彼は優しい父親そのもの――彼の見た目から考えると孫と祖父と言った方がしっくりくるが――だった。

 流石に茶番が過ぎると辟易する者もいたが概ね反応は好意的なものだった。


「私もグレーザー卿を推しましょう。私には卿らの手腕を知る由はありませんがエスティアナのことは昔からよく見ています。その彼女が推すのですから私もそれに乗りましょう」


 更にヘリュナス大修道院長カレンもハルゲン支持を表明する。

 今年70に差し掛かる彼女だが背筋はピンと伸びておりその所作は洗練されている。

 本来エスティアナよりも発言権を持つはずの彼女がエスティアナの意見に追随したことで流れは大きく傾いた。


「貴女ほどの方にご支持を頂けるとは。私は本当に孝行者の娘を持ったものです」


 ハルゲンはカレンに謝辞を述べると、次々と他の者へ意見を求めた。

 その中には反教皇派のものたちもいたが、聖女と大修道院長が認めた相手を前に大見得切って反対意見を述べられる者などおらず、煮え切らない答えを返すだけに留まった。


「ふむ、ではアマート殿。貴殿の考えはどうだろうか?」


 一通り聞き終わり、最後のまとめとばかりにハルゲンは聖法騎士団総長ダンテ・アマートに声をかける。


「残念ながら儂の立場からそれに答えることはできんのぉ」


 カレンよりも更に年老いて見える老人は仙人のように長く伸びた顎髭を弄りながら飄々と答える。


「おや、これは失礼を。聖法騎士団は教義、政治には中立が原則でしたな」

「左様。あまり儂を困らせるでないぞ」


 軽く諫めるように言うダンテ。支持を断られた形となったのだがハルゲンに失望の色は見えない。

 

「じゃが聖女エスティアナには(・・・・・・・・・・)儂の部下もたびたびお世話になっておる。この場を借りてお礼を言っておかんとのぉ」


 不安げに二人のやりとりを見ていたエスティアナに視線を向けてダンテは謝辞を述べる。

 それはエスティアナの、ひいては彼女を支持したハルゲンの行いを認めたことに他ならず、彼の言葉の真意を理解できぬものなどこの場には一人としていなかった。


「ふむ」


 満足げに、しかしそれが露骨に顔にでないようにハルゲンは笑う。

 この時点で既に勝ちは決まったようなものだった。

 エスティアナもハルゲンの様子を見てほっと胸をなで下ろした。


「では他に神の代弁者たらんとするものはいるだろうか?」


 ハルゲンは他の枢機卿を見回してその意思を問う。

 中には悔しそうに睨み返す者もいたが、異議を唱える者はいなかった。


「では候補は私一人ということで後日の選挙では信任投票に――」

「待たれよ!」


 ハルゲンが会議を終わらせにかかったその時、大聖堂の扉がばっと開かれた。

 現れたのはまだ年若い青年だった。

 美しいホワイティーアッシュの髪をなびかせハルゲンの下へと歩く姿は荘厳にして流麗。

 その所作に劣らぬ彼の美貌は男女問わずここにいる者の心を奪う。


「我こそが女神シュトレアの御心を最も理解する存在。女神の代弁者を選ぶというならば我を置いて他にいまいよ」


 どこか演技めいた口調で男は大胆にもそう宣言した。

 すなわちそれは教皇への立候補を意味する。


「困りますなガザレス卿。会議に遅れた上にこのような不作法を働かれては」

「申し訳ない。若輩者ゆえ準備(・・)に時間を取られてしまいました」

「言い訳はよい。卿は教皇に名乗り出る前に大人としての心構えを学び直すのが先ではないか?」

「返す言葉もございません。我はいささか世の常識というものに疎いようです」


 男はハルゲンの言葉を認めつつも前言を撤回することはしなかった。

 無恥な態度を取る男を今すぐここから叩き出したいと思うハルゲンだったが、彼にその権限はない。

 なぜならこの不遜な美丈夫もまたハルゲンと同じ立場――枢機卿の一人なのだから。

 オクタビオ・ガザレス。

 平均年齢が50前後という枢機卿たちの中にあって、若干32才にしてその地位に上り詰めた傑物。

 人族最南端の国スパニア共和国の大商人の嫡男として生まれた彼はその才能を見込んだ父によって20才にして会頭の地位に据えられる。 

 だが商会の権利を握るや否や、オクタビオは商会を部門ごとに独立させ、そのすべてを競合商会へ売却し、あろうことかその売却益をすべて教会へ寄付したのだ。

 当然父や親族は怒りに怒った。だがそのほかの者で彼の行いを非難したものは一人もいなかったと言う。

 もともとガザレス家の商会は低賃金で労働者を働かせることで悪名高かったのだが、オクタビオは売却の際に既存社員の給料アップ、及び売却先商会での正当な地位を保証したためだ。

 売却先の商会とのコミュニケーションもオクタビオが率先して行ったため不和が生じたケースは一件もなかったという。

 莫大な金額の寄付により彼はすぐにスパニア共和国の司教の一人となり、昨年スパニア共和国出身の枢機卿が老衰を理由に引退を表明したことにより異例の速さでオクタビオがその座に就くこととなった。


(ふん、やはり出てきたか。成金の若造風情が)


 そんな強運と才能に溢れた彼は反帝国派の中心人物だった。

 しかしハルゲンに焦りはない。彼が名乗り出ることは火を見るより明らかだったからだ。反帝国を掲げている以上対抗馬を出さなくては何のための派閥かわからない。

 確かにオクタビオは有能であり型破りな行動をする彼には人を惹きつける魅力もある。だが所詮勢いだけの新興勢力。重要な有力者を味方に付け、盤石の体勢を築いたハルゲンの敵ではない。


(ならばこの自信ははったりか? わざわざ会議に遅れて心証を悪くしてまで此奴は何を……)


 疑問の答えを求めてオクタビオを眺めるハルゲン。そこで彼はあることに気づく。


「そちらの女性はどなたかな? この場は関係者以外の立ち入りを禁じているはずなのだがね?」


 頭まですっぽりと覆うフードを被っているため顔までは確認できないが服越しでもわかる滑らかな曲線を描くその者の体は明らかに女性のものだった。

 恐らくそれが彼の隠し球なのだろう。あからさまな罠であったがここで指摘しないわけにもいかない。

 予想通り、女性の存在を問われたオクタビオは我が意を得たりと微笑む。


女神(・・)ですよグレーザー卿」


 しかしオクタビオの答えは思いもよらぬものだった。

 馬鹿にされているのだろうか?

 或いは何かの比喩か?

 彼の真意を測りかねハルゲンは訝しげな視線を送る。


「彼女と出会ったのは二日前。我がこの大聖堂で女神への祈りを捧げようとした折りのことです。既に前教皇逝去の報を聞いていた我は柄にもなく心を乱しておりました。偉大なる指導者の死とこれから我が(・・)背負わなければならないものの大きさに恐れ戦いてしまったのです」

「貴様――ぬけぬけと!!」

「落ち着くのだアルメン卿」


 既に自分が教皇になることが決定しているとも取れる発言に剣呑な空気が流れる。ハルゲンもぴくりと眉を動かしたが、ここで話の腰を折ったところで何にもならないと考え、自派の熱狂を抑える。


「我は女神に問いました。果たして我の愛は正しいのか。果たして我の愛はすべての民を包み込む度量を持ち合わせているだろうか、と。祈りは何時間にも及びました。やがて我以外の気配も消え辺りが暗闇に包まれた頃になってようやく我は決心し顔を上げました。そこで我は出会ったのです。暗闇の中にあって尚輝きを失わぬ神々しい姿で佇む女神のごとき(・・・・・・)この女性と!」


 オクタビオは興奮頬を紅潮させ、大げさな手振りでもってその感城をみなに伝えようとする。


「我はその美しさに言葉を失いました。幾輪もの花を愛でてきたこの我が、まるで女を知らぬ少年のように胸を高鳴らせてしまったのです! 今すぐにでも彼女の愛が欲しい。彼女の愛を得られるならば例えこの場にひれ伏してその御御足に口づけしても構わないと思った次の瞬間には、既に行動に移っていた。だがそんな我の行動を彼女はお叱りになった。神聖なるシュトレア教国の玉座に座す者(・・・・・・)がみだりに謙るべきではないと。その段になってようやく愚かな我は気づいたのだ。なぜこれほどまでに心を奪われてしまったのか。すべてをなげうってでも愛されたいと願わずにはいられない目の前の女性が何者なのかを。――すなわち彼女は我らが崇める女神なのだと!!」


 だが彼の熱を受け取る者は誰もいなかった。ある物は呆れ果て、またある物は冷笑を持って彼を見ている。


(どうやら私は奴を買いかぶっていたようだな……)


 ハルゲンもまた呆れと嘲笑、僅かな失望を持って彼を見ていた。

 こんな三流脚本を持ってして自分を泊付けしようと考えていたのならばあまりに筋が悪すぎる。これならまだ子供のおままごとの方がリアリティがあるというもの。

 敢えて褒める点を探すとすればこんな滑稽な筋書きを笑わずに演じきれる彼の演技力くらいなものである。


「ふぉっふぉっふぉ、ガザレスの坊やは面白いことを言いよる。世間では奇人などと言われておるが、本性は夢見がちな少年であったか」


 堪えきれぬといった様子でダンテはオクタビオを揶揄する。


「卿は規範となるべき立場なのだ。みだりに根拠のない妄言を撒き散らすのは止めて頂きたいものだな」


 ハルゲンもそれに続き苦言を呈する。

 回りの者も次々に失笑を漏らし大聖堂がしばしざわめく。

 だが肝心の本人は回りの反応などまるで見えていないかのように優雅な笑みを崩さずざわめきの波が過ぎ去るのを待った。


「確かにみなの気持ちもよくわかりる。拙い我の言葉ではペテンと疑われても仕方が無い。ゆえに今ここで――彼女が神の御使いであることを証明してみせよう!」


 一度は止みかけた喧噪が一層大きくなった。

 取り繕う必要も感じなくなり笑い出す者や、まだ茶番を続けるつもりかと声に出して非難するものたちまで現れる始末。

 ――しかし次のオクタビオの行動により場の空気は凍り付いた。


「――がっ……ふ……」


 そこには自らの(・・・)左胸に短剣を突き刺したオクタビオの姿があった。

 オクタビオは苦痛に顔を歪め呻き声を上げる。

 そのままよろめいて崩れ落ちそうになる体を柱に預けてなんとか踏ん張る。

 ――そして最後の仕事とばかりに短剣を引き抜き、そこで力尽きて倒れ伏した。


「なっ……」


 ハルゲンは突然の奇行に言葉を失っていた。

 こいつは一体何をしたのか?

 次期教皇を選ぶための神聖な会議で自殺を試みるたのか?

 何の目的で?

 いくら考えても可能性さえ見えてこない。

 これでは奇人などではなく狂人のそれではないか。


「――早く治療を!!」


 いち早く立ち直ったのはエスティアナであった。

 オクタビオの行動の訳はわからずとも、このまま放置すれば確実に死に至る。

 いや……、幾度もの治療経験を持つエスティアナにはその時既に諦めに捕らわれていた。

 彼は出血し過ぎているのだ。短剣を引き抜いた彼の胸からは止めどなく血が流れ続けている。

 確かにエスティアナの魔法があれば傷は治すことができる。しかし失った血液まで戻すことはできない。目の前に見える血の海からわかってしまうのだ。この量は致命的だと。

 それでも万が一の可能性に賭けて自身の最高峰の治癒魔法を唱えようとする。

 ――しかしそれを遮る者がいた。


「お待ち下さい」

「なっ――あなた! 早くしないとこの人死んじゃうよ!!」

「わかってますわ。だからこそ(・・・・・)待って頂きませんと」

「何を……言って……」


 女は答えずエスティアナに向かって微笑んだ。

 フード越しに覗く彼女の顔を見てエスティアナは息を呑む。

 それはこの危機的状況すら忘れる程の美貌。

 美しさで言えばオクタビオは最高峰のものだと誰もが認めるだろう。だがエスティアナの瞳に映る彼女のそれは人と(・・)比べるにはあまりにも完成し過ぎている。

 いや、確かに恐ろしいまでの美しさはそれだけで忘我に値するものであるが、それすらも些事となるような光景をエスティアナは目の当たりにして凍り付く。


「みなさま。ここに倒れ伏した男は聖女をして焦りを免れぬほどの重傷者。いいえ、もしかしたらもう既に死んでいる(・・・・・・・・・)かもしれません」


 しかし女は固まるエスティアナを放置してその場に集まる者すべてに語りかける。


「みなさまはこの光景すら疑うでしょうか? ならば今すぐ彼の下に駆け寄り地を染める赤い雫に口づけしてみるがよろしいでしょう。あるいは再び彼の体に刃を突き立て、その死を完全なものにするのも良いかもしれません」


 ハルゲンはダンテに視線を送る。幾千幾万の戦いをくぐり抜けて来た聖法騎士団総長である彼には、はったりなど通じないはずなのだ。しかしダンテは首を横に振る。それすなわちオクタビオは本当に死に瀕しているということ。

 ふとハルゲンは自分の体が震えていることに気づいた。

 人の死を見るのは初めてではない。医療の現場にいたこともあるし、戦場にだって立ったことはある。

 しかし何の意味を持つかもわからぬオクタビオの死はあまりに不気味だった。

 恐怖はハルゲンだけでなくこの場に立ち会うすべての者に伝搬していく。


「わかって頂けたようですわね。では――あなたがたに奇跡をご覧に入れましょう」


 しかし、その空気にそぐわぬ声が響く。

 まるでそこに死など存在しないかのように朗らかに。

 あたかもこれから家族でピクニックに出かけるのを待つ幼子のように喜色を浮かべて。

 そして我が子を愛し包み込むような優しい音色で――


第六階梯固有魔法(アルタ・ルイン)――『舞い落ちる祝福(ハイリヒニクス)』」


 女が言葉を紡ぐと、まるで舞い落ちる雪のような温かく柔らかい光が大聖堂に満ちる。

 つい先ほどまで死の恐怖に取り憑かれていたはずの者たちが一斉に安堵のため息を吐き、その光景に見入った。

 それが危険なものかもしれないなどと考えるものは誰一人としていなかった。

 誰もがその光に身を委ね安らぎの表情を浮かべる。

 そうして誰もが時の流れを忘れた頃、ようやく口を開く者があった。


「感じて頂けましたか? 女神の愛を」


 まるで何事もなかったかのようにオクタビオはそこに立っていた。

 だが先ほどの光景が決して幻想などではなかったことは真っ赤に染まった彼の服を見れば明らかである。

 しかしみなの目線はオクタビオには向けられていない。これだけ驚愕の光景よりももっと驚くべきことが、否、驚くべき存在がそこにいるからだ。

 いつの間にか女はローブを脱ぎ去り、その素顔を晒していた。

 雪のように白い肌に艶のある深黒の長い髪。すべてを吸い込んでしまいそうな切れ長の黒い目。顔のパーツはすべてがそこにあるべきだと思える位置に納まり、ローブがなくなりはっきりとわかるようになった体のラインは芸術とも言えるバランスを保っている。

 ああ――オクタビオの言葉は嘘でも誇張でもなかったのだ。もしも彼らに思考する余裕があったならばそう思っていたことだろう。

 だが誰一人としてまともな思考力を残している者はいなかった。

 なぜならその顔は誰もが知るものだったから。

 そうでありながら|誰もが会えるはずのない《・・・・・・・・・・・》存在だったのだから。

 その女性の名こそ――


「……シュトレア様」


 誰が発したのかもわからない呟き。

 それがすべてを表していた。

 オクタビオが引き連れてきたその女性は大聖堂のステンドグラスに描かれた女神の姿そのものだった。


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