プロローグ
神聖シュトレア教国、聖都グランロンド。
その中心に荘厳とそびえ立つは白銀の城グランロンド。
そこは教皇庁の置かれる、まさにシュトレア教の心臓とも言える場所である。
最新の建築技術の粋を集めて作られた精巧で芸術的な美しさを誇るその城は見るものを圧倒し、誰もが己の矮小さを思い知らされ言葉を失うという。
だと言うのにその日、静謐なはずのグランロンド城内では慌ただしく人が行き来し、中には城内を走り出す者さえいた。
普段なら絶対にあり得ない光景。だがそれも無理からぬ事である。
それだけの大事が起ころうとしているのだから。
それは一つの転換期。
そして後の世界の運命を狂わせた乱世の時代の胎動である。
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「ようやくこの時が来たようだな。まったくあの耄碌爺には永らく待たされたものだ……」
白髪でガイゼル髭を蓄えた、がっしりとした体型の中年の男は感慨深そうにそう呟いた。
慌ただしい足音が響く城内とは対照的に落ち着き払って事態を静観している。
「口が過ぎますぞハルゲン卿。まだ教皇猊下はご健在であられます」
「ふっ、あの体で生き延びられるというならそれこそ奇跡というものだ。神に祈ったとしてもどうにもならんさ」
そう言って彼、ハルゲンは皮肉を込めた笑みを返す。
この神聖なる場所で飛び出したとは思えぬような不遜な発言である。
だが、その言葉を聞いていた相手は特に気にする様子も見せない。
彼も本心ではハルゲンと同じ意見なのだから。
どれだけ隅々まで調べても二人の男に信仰心を見いだすことはできないだろう。
「準備はできているのだな?」
「ええ、抜かりなく。と言っても『聖女』も我が聖法騎士団もこちらの陣営なのです。それを覆す条件など私には思いも寄りません」
「当然だ。すべてはこの時のために準備してきたことなのだからな」
「では各位に通達してよろしいので?」
「ああ、奴がこの夜を越えることはないだろう。決して抜かるなよ」
「もちろんですとも。必ずや女神の微笑みをあなたの手に贈りましょう。――新たなる教皇猊下よ」
悪趣味な戯れ言を残して男は退室していった。
「新たなる……か。ああそうだとも。そこが俺の辿り着くべき場所だ」
ハルゲンはそのおべっかに気をよくするでも無く損ねるでもなく、ただ平坦な口調で独り言つ。
その視線は窓に向けられていたが、彼が見ているのは窓の外ではない別のどこかだ。
「必ず手に入れてやるさ。どんな犠牲を払おうともな……」
すべてを燃やし尽くさんばかりの憎悪の籠もった目がそれを物語っていた。
グランロンド城の別の一室。
ここにも回りとは態度を逸する者がいた。
「シュトレアよ、ああ女神シュトレアよ。この世の中には愛すべき存在に溢れているというのに。あなたはなぜ分けてしまわれたのか。人族と亜人などという仕切りを設けて、我ら人族を孤独に追いやってしまわれたのか!! 男も女も大きい胸も小さい胸も大きいお尻も小さいお尻も老いも若いも、猫耳も犬耳もウサ耳も鱗のしっとりした肌触りもすべて、我は愛さねばならない!! この燃えるような愛で世界を包まねばならないというのに!!」
サラサラのホワイティーアッシュの髪を揺らしながら天に手をかざし大げさな様子で何かを訴える男。
その顔は非常に整っており、彼が声をかけたならば世界の半分は味方に付けられると言われても不思議ではないほどの美青年だった。
だが一糸まとわぬ姿で一連の行動を行う彼はどこか滑稽さも漂わせていた。
「いいや、かの慈悲深き女神がそのようなことを望まれるはずがない! これは陰謀なのだ。一部の権力を欲する者たちが女神の意思をねじ曲げてしまったのだ。ああ、なんと嘆かわしい――」
「――だからこそ、貴方様は教皇の座を欲された」
一人きりだと思われた男に声をかける者があった。
艶のある深黒の長い髪に切れ長の黒い目をした大人の女性。
男の背後に置かれたベッドから気だるげな顔で起き上がった彼女も男と同じく服を着ていない。
シーツの隙間から覗く彼女の体はとても豊満で、その黒髪と相まって妖しげな雰囲気を醸し出している。
「ああ、起こしてしまったかい、神に愛されし者」
「貴方様があまりにも情熱的に愛を語るものですから。昨夜わたくしに愛を注いでくれたばかりだというのに……少し妬けてしまいましたわ」
「ごめんよアマデウス。だが我の愛は等しくみなに振りまかれるべきものなのさ」
「はい、理解しておりますわ。今のはつまらない女の妄言だと思って下さいまし。時が来た今、わたくし一人が貴方様を独占することなどできません」
「もちろん君が我を欲するならいつでも愛を与えるよ。でも君が本当に欲しいのはそんなものじゃないだろう?」
それまで演技口調だった男が僅かに目を細め、しかし笑みは崩さず女を見つめる。
女は驚いたように目を見開く。
「貴方様には敵いませんわね……」
「ただ相手の言葉尻だけに従うことが愛だと言うのなら、我はそんなものを与えるつもりはない。丸裸の心に触れ、真なる欲望を満たしてやってこその愛だ」
「ですがわたくしの望みの代償は高く付きますわよ?」
「それは我の望みでもあるのだ。覚悟などとうの昔にできている」
「ではようやく始まるのですね。わたくしたちの求める時代が」
男の言葉を聞き女は思わず笑みを零す。
妖艶な女としてのものではない。まるで白馬の王子様を夢見る少女のようなあどけない、どこまでも純粋な透明な笑顔。
彼女は望んだ未来を夢想する。
望んで、欲して、焦がれて、それでも辿り着くことができなかった、ただ一つの未来を。
これはその第一歩。少女が女になるための通過儀礼。
「ああ、始めよう。我が愛の赴くままに――」
男もまた笑う。
自身の意思を貫くために。
あまねくすべてに愛を届けるために。
愛するために壊すという矛盾すら呑み込んで。
「神の代弁者、次期教皇の座に着くのは――この我だ!」
聖歴1342年第6月5日未明。
シュトレア教教皇インセント三世は静かに息を引き取った。
享年68歳。
在位16年、彼の治世は終わりを告げる。
間もなく葬儀が行われ人々は喪に服することとなるだろう。
そして、始まるは血で血を洗う権力闘争。
後の歴史家たちにより『血塗れの聖座』と称されることとなるシュトレア教、教皇選挙が幕を開けた。
数時間以内に第1話も上げる予定です。




