エピローグ
深い深い闇の中をどこまでも落ちていく。
呼吸も儘ならず、視界は利かない。
あの黒い化け物に取り込まれてしまったのだろうか?
レイラは朦朧とする意識の中そう思った。
だがあれと退治した時のような恐怖心はもう感じない。
そしてここは暗闇の中ではあるが、決して光の存在しない世界ではないとなんとなくわかる。
(あれは……光?)
その直感に裏切られることなく、僅かに闇の浅いところをレイラは見つける。
自分が今、どの方向を向いているのか定かでは無いが自分が落ちていくのとは逆の方向から光が差してくるのが見えた。
そこでレイラは現状を理解する。
ここは水の中で自分は海底に向かって沈んでいるのだと。
であれば息が出来ないのも当然だ。
塩気を感じることからここは海なのだろう。
最後の記憶では自分たちは沿岸沿いの街道を進んでいたので或いは化け物の攻撃により海まで飛ばされたということもあり得るのかもしれない。
(でももはや関係ありませんね……)
水面まで浮き上がれば助かるのかもしれないが、もう体は動かない。
自分に出来る事はただ死の訪れを待つことだけだろう。
しかし、レイラはそこで自らの命よりも大切な存在がいないことに気づく。
(アンナ……様……)
最後の瞬間まで腕の中にあったはずの温もりが今は無い。
もし無事に生き延びているのならそれでいい。
でももし、自分と同じように海の中に放り込まれているのだとしたら――。
今すぐにでも海の中を泳ぎ、主人の元に駆けつけたい衝動に駆られる。
だが体は思うように動かない。
代わりにレイラは視線だけを泳がせアンナの姿を探した。
(――――っ!!)
幸か不幸か、その行いはすぐに実を結ぶこととなる。
レイラは狂おしいまでに求めた主人の姿を発見した。
……だが、その瞬間レイラの心に湧き起こったのは激しい後悔であった。
アンナは体のあちこちに傷を負いながらもその美しさを損なってはいなかった。
――だがそれはレイラの知る美しさでは無い。
命を待たぬモノが放つ、無機質な美だった。
アンナの顔は驚くほど白くなっていて、ぴくりとも動かない。
(ああ……私はまた……)
絶望と虚脱感に襲われながら、奴隷として母に売られたあの日のことがレイラの頭にフラッシュバックする。
自分が生まれてしまったばかりに母は村から爪弾きにされた。
人族の奴隷商人に接触するなどという愚かな行為に走らざるを得ない状況に追い込んだのも自分のせいで、結果、自分諸共、母は奴隷となってしまった。
あの時の母の絶望した顔は決して忘れてはならなかったのに、自分は主人の与えてくれる喜びに溺れて本質を忘れてしまっていたのだ。
(……私は不幸を呼ぶ忌み子。それがわかっていたはずなのに私はまた――)
この結末が自分が引き寄せた不幸だなどと思い込めるほどレイラは自分に酔ってはいない。
だがそんなことは問題では無いのだ。
(あの時……あの最期の瞬間に私がすべきことは、この身が朽ちようともアンナ様の命を繋ぐことだったはずなのに)
なのに恐れてしまった。
一人で死ぬことを。
何よりも愛するアンナと共に逝くという自分にとって都合のいい選択を選んでしまった。
自分は義務を怠って自らの幸せを優先させたのだ。
だからこれは罰なのだろう。
主人の死を――自分の選択した結末を見ながら息絶えるという。
(……ごめんなさい……ごめんなさい……アンナ様……)
だがレイラはそれ以上、変わり果てたアンナを見ることはできなかった。
罰を受けきる気概さえない自分を責めながらも目を閉ざし、ただ止めどなく涙を流す。
もう彼女には世界に向き合う強さは残っていなかった。
このまま目を閉じていればいずれ自分の命も終わる。
そうなればもう、嫌なモノは何もみなくていい。
だから早く、この意識さえも闇に溶かして欲しい……。
『あらあら、それは困るわね』
だが、それは奇跡だったのだろうか?
聞こえるはずの無い声がレイラの頭の中に届いた。
ここは海中なのだ。こんな鮮明な声が届くなどありえない。
だがそれだけのことならばレイラが驚くことはなかっただろう。
アンナを失った今、他のどのような出来事にも価値などないのだから。
――だが、頭に響いたその声はレイラが聞き間違えるはずのない、今この瞬間、レイラが何よりも望んでいるアンナそのものの声だった。
(――――!?)
驚きのあまりレイラは目を開ける。
再びレイラは視界にアンナを捉える。
だが、そこに飛び込んで来たアンナの姿は先ほどまでのものとは一変していた。
無数の傷は消え、すっかり生気を取り戻した健康的な顔色となり、そして二つの碧い瞳を開き、じっとレイラを見つめているのだ。
だが、そんなことはありえない。
アンナは確かに息絶えていていたのだから。
それに、レイラは直感で理解していた。
目の前の少女は姿形こそアンナと同一であるが、似て非なるものであると。
『いいえ、私はアンナよ。正しくは本来アンナとして生まれていたはずの存在だけどね』
心が読めるのか、目の前の存在はレイラの疑問を否定した。
しかし、彼女の言っていることがレイラには理解できなかい。
『うふふ。いいのよ理解する必要なんてないわ。私はただの残滓に過ぎないのだから』
そう言ってアンナの姿をした彼女はレイラに微笑む。
その屈託の無い笑みはレイラの知っているアンナと同じものだった。
『だからこんなことしかできない私の代わりにこの子をお願いするわね――』
アンナの姿をした彼女から暖かな光が零れ出る。
その光はレイラを包み込み――
『守ってあげて、この子がこの世界の頂に立つその時まで』
まるで母の腕の中に抱かれた時のような優しい感覚に包まれ、まどろむようにしてレイラの意識は沈んでいった。
++++++
波が砂を攫う音が耳元から聞こえてくる。
横たわる自分すらも攫おうとしきりに体を撫でては引いていく。
その度に体温を奪われ凍えそうになるが、 背中の温もりがそれを阻止してくれていた。
誰かが自分の上に乗っている、そうアンナは理解した。
しかし、それが誰なのかすぐに確かめようとはしなかった。
まだまどろみの中にいるかのように体が言うことを聞かない。
(……あれ? でも……ボクは確か……)
働かない頭を必死に動かす。
そうだ、自分は謎の化け物に襲われて死んだはずなのだ。
ではここは死後の世界なのだろうか?
それともまた生まれ変わって……
「――ぞ! ――――――――か――!?」
(……ん?)
徐々に意識がハッキリしてくると、遠くから人の声がするのに気づく。
その声は徐々にこちらに近づいてくる。
最初は聞き取れなかった声も徐々にクリアになり、恐らく自分に向かって呼びかけているのだろうことがわかった。
「おーいお嬢ちゃんたち、生ぎでっが?」
訛りの強い老人の声だった。
コルト村では聞いたことの無いイントーネーションである。
アンナはそっと目を開けた。
「うぅ……」
「おお、生ぎとったが、こんな綺麗なお嬢ちゃんが、こんなとこでどした? 船で遭難でもしだが?」
まだ状況すら把握していないアンナに老人は矢継ぎ早に質問を浴びせる。
あまり配慮の得意な人ではないのかもしれないが、心配してくれているということは伝わってくる。
少なくとも悪い人ではないのだろうとアンナは思った。
しかしアンナは老人の疑問に答える前に確認すべき事があった。
それは自分を包む温もりの正体。
最後の記憶の通りならばそれは――、
「――レイラ!!」
果たしてアンナの想像通りの人物がそこにいた。
あの状況の中、二人共が生き残ったのだ。
それはまさしく奇跡だった。
「そっぢのお嬢ちゃんも息はあるみでえだな。いがったいがった」
老人は二人の無事を確認して笑顔を浮かべてくれた。
その姿は声から受ける印象よりもずっと逞しく、日焼けでこんがり小麦色になった健康そうな肌をしていた。
漁師か何かなのかもしれない。
「心配して頂きありがとうございます。実はボクたち魔物に襲われまして……」
「そうがぁ、それは大変だったなぁ」
「はい。ですがこうして無事だったのですから結果オーライです」
「いがったなぁ。きっとシュトレア様のお導きに違いねえだ」
「シュトレア……? あ、はい。そうかもしれません」
とっさにキリア神父の顔を思い出しトキッとするアンナだったが、シュトレア教会が黒幕だったと決まったわけではないし、ましてやその信者すべてが悪というわけではないはずだと考え、適当に相づちをうつ。
「あの、それでボクたちコルト村から来たんですが、ここはどこなんでしょうか?」
「コルト村って、あの高え紅茶、ダリアの産地か? そらまたえれえ遠くがら来だもんだぁ」
「え……?」
老人の反応を見て少し不安になる。
自分たちはそんなに驚かれるほどの距離を流されてしまったのだろうか?
「あんなぁお嬢ちゃん。こごはもっとも神に愛されだ地、神聖シュトレア教国だで」
「………………………………え?」
それがコルト村からどれくらい離れているのかアンナにはわからない。
だが、コルト村での事件に関わっているかもしれない宗教のお膝元に自分が飛び込んでしまったことは理解した。
(…………とりあえず、まずはお風呂に入りたいな~)
この先、また厄介ごとに巻き込まれる。
そんな予感をひしひしと感じながらも、アンナは現実から目を逸らし温かいお湯につかる幸せな光景を想像するのだった。
今後の更新予定ですが、とりあえず2章プロローグを一週間以内に上げたいと思います。




