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その76 それは、きっと恋――ではありませんわ!

 第6章開幕です!


 

 

 

 波音は子守唄。

 潮風の匂いをご飯に船乗りは育つ。

 海は穏やかに美しく、しかし、時には荒々しく拒絶する。気まぐれな女神に愛されなければ、船は沈没してしまうだろう。

 その点、大海賊だった自分は海の女神に愛されていたのかもしれない。

「この世界も広いのですから、不思議なことがたくさんあってもいいと思うのですわ。わたくしは悪党でしたが、ファンタジー的な噂を聞きつけては、海を渡って旅をしておりました」

「ふぁんたじー? うーん。それで、不思議なことは、あったの?」

 物語を読み聞かせるように、ルイーゼはエミールに語りかけた。揺れる甲板に聞こえるのは爽やかな波音と、カモメの鳴き声。

 強い陽射しはセザールに貰った帽子で防いでいる。船旅の間、少しだけ日焼けしてしまったが、まあいいだろう。

 エミールは引き籠りだった頃と違って、少し健康的な肌色になったと思う。最初は、あんなに日光を怖がっていたのに、目を見張るほどの成長だ。

「不思議なことは、そうですわね。端的に言えば、この世界に、わたくしが望むような派手で素敵な魔法要素はなさそうでしたわ」

 残念、という口調でルイーゼは眉を下げた。


 不思議要素は、あるにはある。

 人魚の宝珠(マーメイドロワイヤル)火竜の宝珠サラマンドラロワイヤル。二つの宝珠は、まさに元いた異世界にはなかった魔法要素だろう。

 しかも、言い伝えによると、海賊時代の自分は二つとも手に入れていたらしい。

 だが、全く覚えていない。ロレリアにあった人魚の宝珠を奪った覚えもないし、火竜の宝珠もどこにあったのか、ルイーゼにはわからない。

 宝珠に関しての記憶が一切ないのだ。

 あるのは、騎士だった頃、建国祭などの催事にアンリが身につけていたのを見たという記憶だけ。それも、核心に迫るものではない。特に意味のない記憶だろう。

 前世の自分が意図的に記憶を消したのか。なにか理由があったのか。わからない。


「ルイーゼには、いろんな記憶があって、すごいね……!」

 記憶を語るルイーゼの顔を、エミールが興味津々の表情で覗き込む。両手にグッと拳を作り、サファイアの瞳をキラキラと輝かせている様は、好奇心旺盛な子供そのものだ。年齢は十九歳のはずだが。

 そんな顔を見ていると、ついいろいろ語りたくなってしまう。

「商人として、砂漠を旅したこともございますのよ……高利貸しの悪徳商人でしたが」

「砂漠? どこにあるの!?」

「フランセールより、ずっと東ですわ。オルマーン帝国の向こう側でしょうか。水も植物もない、見渡す限り砂の山が広がっているのです」

「え、そんなところで、どうやって旅するの? 楽しいの?」

「ラクダに乗るのですわ。人の住む町から町へと商品を運んでいました。東方の珍しい品々を、こちら側の国に住む貴族の皆さまにデリバリーしていたこともございます」

「でりばり?」

「宅配ピザ的な」

「ぴざ?」

「難しいですわね。お届け屋さんですわ」

 なんか、こういう会話は以前にも誰かと交わした気がするな。つい日本で使っていた言語が飛び出すのは、悪い癖だ。

 船旅の間、ルイーゼはエミールに様々なことを語った。主に前世の記憶についてだが、なにせ七人分の記憶がある。ネタが尽きることはなかったし、エミールも積極的に聞きたがった。

 旅の間は、甲板や船室でこうやって話すのが日課である。


「くそッ! だから、なんで俺ばっかり!」

 慌てた叫び声をあげながら、船室からギルバートが飛び出してきた。

 よく日焼けした肌が陽射しに晒される。上半身にはなにも纏っていないが、腰にはキルトと呼ばれるタータンチェックの巻きスカートを身につけていた。アルヴィオスの伝統衣装らしく、布地もしっかりしていて、意匠も細かい。程よく鍛えられた身体は美しい筋肉の盛り上がりと、滑らかな肌によって、妙な色香を漂わせている。

 だが、よく考えれば彼はノーパン主義である。当然、あのキルトとかいうスカートの下はノーパンなのだ。全裸の上に腰布一丁と同義。風呂上りにタオルを巻いてリビングに現れるザ・オヤジと同じレベルの格好である。

 裸エプロンもどうかと思うが、これはこれでどうなのだろう。


「あ、殿下だ」

「殿下、もう昼過ぎですぜ。寝過ぎです!」

「くそ、殿下と添い寝したかった」

「今日もお元気ですね、殿下!」

 しかも、慣れているのか、船員たちはギルバートの露出癖についてなにも突っ込まない。あと、前から気になっていましたが、一人ゲイが混じっていませんか?

「ギルバート殿下、服を着てくださいませ。エミール様の教育に悪いですわ!」

「うるさいっ。狭い場所にいると、脱ぎたくならないか!?」

「それは、あなただけですわ!」

「ねえ、ルイーゼ。僕も脱いだ方がいい?」

「エミール様は脱がなくて結構ですわ。むしろ、見てはいけませんッ」

 早速、変な影響を受けたエミールがそわそわと服の裾を弄っている。ルイーゼは急いで、エミールの視界を塞ぐように手で顔を覆ってやった。


「……おい、小僧」

 地獄の底から這い出るような声が響く。

 見ると、鞭を片手に船室の扉に寄りかかるセザールの姿があった。今日は爽やかな緑色のドレスを纏っており、頭の上には羽根つきの帽子が乗っている。補給で立ち寄った港町で購入した衣装だ。

 だが、その顔は蒼白く、表情もどんよりと淀んでいる。背後からは黒っぽいオーラのようなものが見える勢いだった。

 セザールはよろめきながら甲板を歩き、船の外にもたれるように身を乗り出す。そして、――その続きはいいだろう。要するに、この女装癖の四十路は船に弱い。典型的な船酔いを毎日発症しており、一向に慣れる様子がなかった。

 エミールも最初は酷かったが、すぐに慣れていた。この王子、順応が早いことに定評がありそうだ。なにせ、蛇と仲良くなったら、すぐにライオンを調教してしまったくらいである。

 十五年も引き籠っていたとは思えない。いや、引き籠っていたからこそか。外の世界をスポンジのように吸収している。


「はッ。いい気味だな、オッサン!」

 船旅に慣れているギルバートが得意げに笑う。すると、セザールは亡霊のような顔をあげて、ギルバートを睨みつけた。非常に機嫌が悪そうだ。

 セザールはそのまま、無言でギルバートの腕を掴もうとする。しかし、ギルバートは読んでいたとばかりに後すさった。

「ヌルいな、小僧」

 言うなり、セザールはギルバートの足元に向けて鞭を投げつけた。

「なッ!?」

 馬用の短い鞭は面白いように足元に絡まり、ギルバートはそのまま呆気なく身体を甲板の上に倒してしまった。

 キルトがふわりと舞い上がる。やめてくださいッ。そんな格好で倒れたら、中身が見えてしまいますわ! ルイーゼは再びエミールの視界を塞いだ。

 セザールは仰向けに倒れたギルバートとの距離を一瞬で詰めると、容赦なく、その額をブーツの踵でガンガン踏みつける。


「ぐぇッ、だ、だから、なんで俺ばっかり殴られるんだよ!?」

「そこに、貴様がいるからだ、小僧。我は非常に気分が悪――うッ」

 動いたせいで気分が悪くなったのか。セザールは蒼い顔をして両手で口を押さえた。だが、ギルバートを蹴る足は止めない。いや、むしろ、悪化している。

 気分が悪くなったら王子を殴るとは、どういった理屈だ。しかも、日常化しているせいで、誰も止めに入らない。

 やがて、容赦なく虐待されたギルバートが伸びてノックダウン。セザールの方も気分の悪さから動けなくなってしまい、両者K.O.というわけのわからない惨状で終息した。


「お嬢さま」

 奇妙な日常風景を見て、ジャンがシャキーンとした表情で前に歩み出た。なにも喋らなければ空気なので、そこにいることさえ、忘れそうだった。

「ご気分が優れないときは、是非、このジャンを――」

「わたくし、船旅には慣れておりますので間に合っておりますわ」

 言葉を遮って笑うと、ジャンが傷ついたように表情を曇らせた。いたいけな表情である。

「ルイーゼの執事が可哀想だよ」

 エミールは、よくわからない使命感に駆られたようだ。

「一般的には、鞭打たれる方が可哀想だと表現すると思いますが」

 エミールは首を傾げながら、キラキラした視線を送ってくる。純粋に、ジャンのためになにかしたいという視線だ。ちょっと眩しい。

 このサファイアの瞳に見つめられると、何故だか逆らえないときがある。射抜くようなまっすぐな意思を、裏切ることが出来ないのだ。


 セシリア王妃に似ているから。

 だが、本当にそれだけだろうか。ルイーゼは自問する。

 エミールの視線に惹かれている自分がいると、認めざるを得ない。誰のものでもない。彼の眼差しを見るのが好きなのだと、自覚する気持ちがあった。

 これがなんなのか、わからない。何故だか顔が熱くなってくる。


 ――それは、きっと恋ですわ。


 意味のわからないタイミングで、自分の母親の口癖がフラッシュバックする。ルイーゼは思わず首をブンブン横に振りながら、鞭を強く握りしめた。

 ありえませんわ。だって、エミール様はわたくしの好みではありませんもの。もっと強くて逞しくて、出来れば筋肉隆々で、王族などではなく釣り合う家柄で……ああ、やっぱり、ユーグ様と結婚しておけばよかったかしら。オネェだけど、条件は最高なのですわよね。父親に似て筋肉は、いずれ育つでしょうし! オネェですが!

「よろしゅうございます、お嬢さま!」

 きっと、これは恋などではありませんわ。だって、エミール様は全然好みではありませんもの!

「お嬢さまぁぁぁああ! このようなお仕置き、ジャンは嬉しゅうございますぅぅぅうう!!」

 これは、恋ではない。そう。別の――そう! 親心ですわ!

 ルイーゼは納得のいく答えを見つけて、強く頷いた。

「はあ……はぁッ! よろしゅうございますよ、よろしゅうございます!」

 まだよくわからないが、ルイーゼはセシリア王妃の生まれ変わりかもしれない。そうだとすれば、無意識のうちに親心が働いてもおかしくないではないか。母親の生まれ変わりなら、問題ない。健全だ。

 そうではなくても、教育係を務めて、引き籠りを脱却させた実績だってある。少しくらい母性本能がくすぐられる事案があってもおかしくない。なにせ、エミールは十九歳に見えない軟弱王子なのだ。女子なら、本能的に守りたくなってしまうものだ。たぶん。

 そう。これは親心だ。母性本能的ななにかだ。決して恋などではない。健全な感情だ。

「お嬢さま、お嬢さまぁッ! 大変よろしゅうございますぅぅぅぁぁぁあああッッ!」

 先ほどから、ジャンが勝手に咽び喜んでいるのだと思ったら、無意識のうちに鞭を振り続けていたようだ。まあ、健全な感情で、健全な鞭打ちをしたのだから、いいだろう。

 船酔いでギルバートをタコ殴りにしているセザールとは違う。ルイーゼは至って健全だから、問題ない。

 ルイーゼは清々しい気持ちで、心置きなくジャンの頭を踏みつけて高笑いするのだった。

 

 

 

 第6章開幕から日常回(?)スタート。

 ピザのくだりは、「或る伯爵の告白」を参照。

 次回、アルヴィオス上陸。空気だったあの人が少しだけキャラを立たせます。

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