その71 怖くない……怖くなんか、ない!
エミールとユーグの愉快な冒険後編♪
ステージの大男が火を噴くのを見て、エミールは口を開けたまま固まってしまう。
他にも、剣を呑んだり、大きな玉の上に乗って踊ったり、とても真似出来そうにない技を披露していく。
「ね、ねぇ。ユーグ、す、すすすごいよ。あの人たち、大丈夫なの!?」
エミールはつい興奮して、ユーグの腕に抱きついてしまった。鞄の中に隠しているポチが、頭だけ出てきて舌をチロチロ見せている。
「なんだ、お嬢ちゃん。サーカス初めてなのかい?」
後ろの席に座っていた恰幅の良い男がガハハと豪快な笑声をあげている。彼はユーグのことも小突き、「お兄ちゃん。可愛い子連れて、いいね!」と絡んでいた。少しお酒臭い。
「あら、オジサマ。ありがと」
ユーグは軽く流すように笑って、エミールの頭を帽子の上から撫で撫でした。知らない人とも平気で話せるなんて、ユーグはすごいと感じてしまう。
「僕、女の子に見えるんだ……?」
「いいじゃない。殿下は可愛いんだし」
エミールは、こっそりとユーグにこぼす。
周囲を見ると、似たような様子でお酒を飲みながら雑談している人がたくさんいる。サーカスを見ながら、みんなが楽しく騒いでいる雰囲気だ。
こうやって、民衆の様子を観察するのは初めてかもしれない。建国祭のときは、それどころではなかった。
「殿下、だいぶ人前が平気になったのね」
「……ユーグに比べたら、まだまだ……」
「そうかしら? 最初に比べたら、見違えるくらい良い漢になったわよ。惚れ直しちゃう!」
「え、うん……ユーグもポチもいるし……?」
言いながら、そういえば、前ほど緊張していないと気づく。引き籠りだった頃なら、こんな場所へ来ることなんて出来なかった。
「なんか、ありがと、ユーグ」
エミールはもじもじと俯きながら、少しだけ笑った。
「ユーグがいろいろ連れて行ってくれるから、僕、少しはマシになったかな、って。い、いつも、わがまま聞いてくれて、ありがと……あの、でも、迷惑だったら、言ってくれてもいいよ。そ、その……」
エミールは言いながら、なにが言いたいのか、纏まらなくなってくる。でも、なんとなく、伝えたいことを言葉にすることにした。
「ユーグは僕の騎士だって言ってくれたけど、僕は、ユーグのこと、ポチと同じくらい大事な友達だと思ってるよ!」
一生懸命考えたせいか、顔に血が昇っているのがわかる。ちょっと泣きそうになりながら見上げると、ユーグが言葉を失ったように固まっていた。
引かれちゃった、かな?
不安になっていると、ユーグはいきなり身体をクネクネと捩じらせはじめた。
「あら、やだ。で、殿下……! そんなに可愛いこと言われちゃうと、私……私……! ちょーっと、鍛錬してもいいかしら!? このままだと、今晩、殿下のこと食べちゃう!」
「た、食べる……? か、かじられるのは、ちょっと痛そう……」
「大丈夫よ、殿下。優しくするから!」
「え、でも、血とか出そうだし……絶対、痛いよ。もしかして、丸呑み!?」
大きな口でパクリと一口で呑み込まれる姿を想像して、エミールはガタガタ震えた。
まさか、ユーグは魔王!? 魔王ふじさんの正体は、ユーグなの!?
エミールは自分の想像で気を失ってしまいそうになった。そんなエミールの手を、ユーグがガッシリと両手で包む。
「見つけたぞ、誘拐変態下衆野郎ユーグ・ド・カゾーラン! 妹の手を放せぇぇぇえええ!」
ユーグに手を握られると同時に、後方から甲高い男の声が聞こえる。振り返ると、金髪の少年が物凄い勢いで階段を駆け下りていた。
「え? なに? 私と殿下の邪魔しないでもらえる!? 今、とってもいいところなのよ!」
名指しで誘拐変態下衆野郎呼ばわりされたユーグは機嫌が悪そうに叫ぶ。だが、相手の少年が立派な剣を抜き放ったのを見て、表情を変えた。
「な、なんだなんだ!?」
「演出じゃないのかい?」
近くで見ていた客たちが、物々しい様子に慄く。だが、すぐにサーカスの演出の一部だろうと言って、二人の様子を見守るのだった。
ユーグはエミールに帽子を深く被せて、危なくないように後ろに下がらせてくれる。
「その首、頂戴して血で祝杯をあげてやるぅぅうう!」
「はあ!? いきなり襲ってきて物騒なこと言うのは、どこのお坊ちゃんかしら?」
見たところ、相手の少年は貴族のようだ。歳は十六、七くらいか。立派な旅装束は実用的とは言えず、とても重そうだ。剣も宝石がたくさんついていて豪華で綺麗だが、ユーグや騎士たちが使っているものの方が実戦向きのように思われた。
蜂蜜色の髪や、蒼い瞳はどこかで見たことがある気がするけど……それよりも、エミールは状況がつかめなくて、泣きそうだった。たぶん、ユーグもわかっていないと思う。
「覚悟ぉぉおおお!」
少年が叫びながら突進してくる。
ユーグは剣を抜かないまま、少年の一撃をヒラリと横にかわす。
「なんだ、素人ね」
つまらなそうに言って、ユーグは少年の足を払った。思いっきり躓いた少年は、前のめりに倒れて、客席に沈んでしまう。
「よろしゅうございません。坊ちゃま、弱すぎます!」
いつの間にか、近くで声がした。振り返ると、そこには見覚えのある執事の姿がある。
「え、ルイーゼの……?」
「おや、殿下!?」
確か、ジャンと言ったか。ルイーゼの執事と目が合って、エミールは口をパクパク開閉させた。一方、ジャンは「アロイス様! 坊ちゃま、人違いにございます! お嬢さまでは、ございませんっ!」と、少年に向けて叫んでいた。
だが、アロイスと呼ばれた少年には、聞こえていないようだ。
「くそぉぉおお! 妹を返せぇぇぇええ!」
「もう、弱すぎ。少し鍛えて出直しなさいな、坊や」
立ち上がるアロイスの額を、ユーグがデコピンする。アロイスは驚いて後ろに仰け反り、振りあげていた剣を手放してしまう。
キラキラと光る剣が客席から、サーカスのステージに向けて飛んでいってしまう。
「あ!」
剣が飛んでいった先を見て、エミールは思わず声をあげてしまう。
弧を描いて宙を舞った剣が向かった先にあったのは、サーカスで使われる猛獣の檻。確か、さっきの説明ではライオンという動物だったか。
ちょうど檻から放たれたところだった猛獣は、目の前に刺さった剣を見て、牙を剥く。突然のことに、猛獣使いの反応が遅れていた。
ライオンは大きな身体で地面を蹴り、ステージをあっという間に駆けてしまう。そして、無様に尻餅をついたアロイスの前に降り立った。
ふわりと鬣が揺れ、大きな口の中に並んだ鋭い歯が光っている。
「ひ、ひひぃぃぃいいッ!」
威勢の良かったアロイスが涙目になりながら、叫ぶ。腰を抜かして動けないようだ。
ライオンが駆けこんできたことで、周囲の観客たちは一斉に逃げてしまう。
「殿下、こっち!」
ユーグが身を翻して、エミールの手を引く。どうやら、この隙に逃げてしまうつもりらしい。
「で、でも、食べられちゃうよ!」
エミールはユーグの手を振り払って立ち止まる。でも、どうすればいいのかわからない。
猛獣使いが走ってくるが、間に合いそうになかった。ライオンは唸り声を上げながら、這って逃げるアロイスの服の裾を噛む。
「う、う、うわぁっぁああああ!」
アロイスが間抜けな叫び声をあげている。
「坊ちゃまを食べるくらいなら、是非、このジャンにお仕置きをぉぉおおお!」
ジャンが叫びながら、誰も振ってくれない鞭を握っている。
「ふ……ふじさん」
エミールは唾を呑みこみ、ジャンが持つ鞭に目を奪われた。
鞭……そうだ。鞭だ。ルイーゼは、いつも鞭でジャンを調教している。ポチだって、ルイーゼが調教したのだ。
「ふじさんっ!」
エミールはジャンから鞭を奪い取った。
「こ、怖くない……怖くなんか、ない! ふ、ふふふふじさぁぁぁぁぁああん!」
ユーグが後ろでなにかを言っていた。けれども、聞こえない。
エミールは夢中でアロイスとライオンの間に駆け出していた。そして、力一杯鞭の音を鳴らす。
直接、ライオンを叩いたわけではない。だが、エミールは夢中で鞭の音を鳴らし続けた。
「よろしゅうございます、殿下! よろしゅうございますよッ!」
いつの間にかエミールの鞭の先にジャンがいた。自分から打たれに来たようだ。でも、あまり気にする余裕がなかった。エミールは夢中で鞭を振ってジャンを打ち続ける。
「ふじさんふじさんふじさんふじさんふじさんふじさんふじさん!」
「殿下ぁぁぁああッ! よろしゅうございます! もっと、もっと強く……はぁぁあああッん!」
いつの間にか、目を閉じていた。というより、目を開けると、すぐそこにライオンの口が迫っているのではないか。今すぐに食べられてしまうのではないか。そんな気がして、怖くて開けられなかった。
しかし、少し時間が経っても、なにも起きない。
「ひ、ひゃぁっ」
ビクビクしていると、顔に湿っぽいものが当たる。低いような高いような声で、「みゃぁーご」という鳴き声まで聞こえた。
目を開くと、ライオンが人懐っこくジャレるように、エミールの顔を舐めまわしていた。肩に前足を置かれて、エミールは体重に耐えきれずに尻餅をつく。
食べられているのかと思ったが、違うようだ。
「も、申し訳ありません! お客様ぁ! うちの子が、ご迷惑を!」
サーカスの人たちが集まってきて、謝罪をはじめる。その間も、ライオンはジャレるように、エミールの顔を頬ずりしたり、舐めたりしていた。
余程気に入られたらしい。このライオンが人に懐くことは、あまりないようで、猛獣使いが悔しそうにキーッとハンカチを齧っていた。
「もう、殿下ったら。ビックリしちゃったじゃない! 危ないことは、私に任せてよ!」
「ご、ごめん……でも、放っておけなくて」
ユーグがエミールの肩を掴んで言い聞かせる。本気で心配していたことがわかり、エミールは申し訳なさでいっぱいになった。
でも、襲われそうな人を放っておけなかった。
いつも、助けてもらうばかりだから。なんの役にも立たずに、見ているだけだから。そんな自分が情けなくて、どうにかしたかった。
エミールはどっと疲れを感じて、へなへなと、その場に崩れて気を失ってしまう。その顔を、「ごろにゃぁ」と声をあげながら、ライオンが舐め続けるのだった。
このあと、ユーグは一晩中、筋トレして煩悩と戦い続けましたとさ。




