その30 絶対、巻き添えだよね?
身体が震えているのは、筋肉痛のせいだけではないと思う。
歯がガタガタ浮いてカチカチ音が鳴るし、額からは珠のような汗が噴き出て流れている。
「あらあら、エミール様。震えてらっしゃいますわよ。筋肉疲労ですか? 豚レバー、食べますか?」
「き、筋肉痛じゃないよッ!」
優しそうに聞こえる声色で笑いながら、ルイーゼが扇子で煽いで風を送ってくれる。しかし、エミールは少しも心が休まらなかった。
どうして! 僕が! こんなこと!
「あら、巻き込まれた、という顔をしていらっしゃいますわね。違いますわよ。これも、エミール様のためなのです」
「う、うそだぁ……僕、絶対巻き込まれたんだよ……ヤダよぉ……部屋で寝てたいっ」
「ソンナコトアリマセンワヨ」
「なんで棒読みなのっ?」
最近はルイーゼにあまり文句を言わなかったが、このときばかりは不満でいっぱいだった。
――ミーディアとわたくしのために、一肌脱いでくださいませ!
そう言って押し付けられた役回り。
アンリを呼び出して、適当に雑談でもしながら時間を稼ぐ。ただそれだけだ。
しかし、それだけのことが、エミールにとって、どれほど大変なことか!
「む、むりだよ……」
雑談って、なに。ザツダンって、なにを話せばいいの。どうすればいいの。頭の中がグルグル回って気絶しそうだった。
そもそも、エミールが引き籠ってからというもの、父とマトモに口を聞いていないと思う。
アンリは年に一度ほど、控えめにエミールの部屋を覗くばかりで、会話をあまり交わさない。元気かと問われ、元気だよと答えるだけ。先日、ルイーゼを連れていったとき、久々に正面から顔を合わせた気がする。
「無理でも、やって頂きます。大丈夫ですわ。もう、エミール様の名前でお手紙出しましたから。そろそろ国王様はノコノコ現れます」
「え、ちょ、う、うそでしょぉ!?」
そんな話、聞いてないよ! エミールはいよいよ涙を流しながら首を横に振りまくった。しかし、ルイーゼは清々しい笑みで誤魔化すばかりだ。
「む、むり。父上だって、ぼ、僕のことなんて、もう……」
きっと、もう諦めている。
定期的に教育係は寄越すけれど、会いに来ることなど稀だ。こんな引き籠りのどうしようもない王子などに、構っている暇はない。
「大丈夫ですわ。国王様は、エミール様を嫌ってなどいません。いつも、エミール様のことを気にかけていますのよ」
「そんなこと……」
俯くエミールの手を、ルイーゼが両手で握りしめた。
「国王様は日に三度ほど、脱走してこの部屋を目指すそうですわよ。すぐに連れ戻されるか、辿り着いても声をかけられずに帰るそうですが」
「え?」
エミールの部屋は王宮の端に位置する。別に毎回通らなくとも、日常に支障はないはずだ。
「同じでございます。国王様も、エミール様と同じで少し臆病の軟弱者なのですわ」
ルイーゼは小さく「まあ、情報源はストーカーですけれど」と付け加える。
父上が、僕を気にかけてる? 本当に?
エミールはサファイアの瞳を大きく瞬かせた。しかし、疑心暗鬼になるばかりで、不安は解消されない。ルイーゼなら、エミールを乗せるために、これくらいの嘘はつきそうだ。
シエルが実はミーディアという名の女の子で、アンリに恋をしている。それは、わかる話だ。信じ難いが、それなりに理解はしているつもりだ。
しかし、どうしてルイーゼが二人の仲を取り持とうとしているのだろう。そして、何故、そのためにエミールが協力しなければならないのだろう。「やんごとなき事情ですわ」と言っていたが、どう考えても、ルイーゼが協力する意味がわからない。
怪しい。流石のエミールでも、これは騙されない。
「殿下」
ルイーゼの執事がキリッとした表情で前に出た。そして、エミールの前にルイーゼと同じ短い馬用の鞭を差し出す。
「お困りなら、このジャンをお使いください」
「え、え……あ、うん?」
エミールは鞭を受け取るが、イマイチ使い方がわからない。ルイーゼは、これで壁やジャンを殴っているが……同じようにすればいいのかな? うーん、ルイーゼは楽しそうだけど。
「ちょっと、アンタたち早く隠れなさい。陛下が来るわよ!」
使い方を考えていると、ユーグが廊下から顔を覗かせた。未だにエミールの部屋の扉は破壊されたまま直っていないので、常に開放状態である。
「わかりましたわ」
ルイーゼとジャンが部屋の隅に隠れてしまう。
独りで部屋の真ん中に残され、エミールは辟易した。自分も物陰に隠れようとすると、ルイーゼに追い出されてしまう。
「エミール……?」
開放状態の扉からこちらを覗くアンリの姿を見て、エミールは石像のように固まった。震えるどころではない。
こっそりと物陰に視線を移すと、ルイーゼが視線で「行け」と殺気と共に命じていた。
エミールは壊れたゼンマイ人形のようにカクカクとした動きで、右手右足を同時に出した。次いで、左手左足を出して前に進む。
「エ、エミール。どうしたのだ……どこへ行く?」
なにも言わないまま部屋を出ていくエミールを追って、アンリが歩く。その後ろには、シエル、ではなく、ミーディアがついてきていた。護衛役だろう。
「殿下、雑談してください。怪しまれています」
ミーディアがこっそりと、エミールに伝えてくれる。だが、どうすればいいのかわからない。なにを話せばいいのか、エミールにはわからなかった。
とりあえず、エミールはぎこちない歩みで進み続ける。一方、アンリは数十秒ごとになにか言いたげに口を開くが、すぐに黙ってしまっていた。
「殿下、陛下にお尋ねしたいことがあるのでは?」
「へ? え? え、えー……」
ミーディアが助け舟を出してくれる。しかし、エミールの頭の中は既に真っ白だった。なんの言葉も浮かんでこない。すぐに「部屋に帰りたい」と言いたくなるのを我慢するので精いっぱいだった。
でも、でも、なにか言わないと! こちらを訝しげに見ながら、渋々ついてくるアンリを振り返り、エミールは拳を握った。
なにか、言わないと! なんでもいいから、聞かないと!
「ち、父上!」
「なんだ?」
「あ、あの……きっこーしばりって、楽しいのですか!」
前に、ルイーゼとジャンが喋っていた内容だ。自分では、よくわからなかったし、カゾーランに聞いたら気まずそうに無視されてしまった。一度、誰かに聞いてみたかったのだ。
アンリは目を見開き、エミールをまじまじと凝視していた。なにか、変なことを言ったのだろうか。エミールは滝のような汗が背中を伝うのを感じた。
「……ふむ、良いではないか。それはとても楽しいことだぞ。羨ましいくらいだ」
「そ、そうなの? 父上は、きっこーしばり、しないんですか!」
「しない! むしろ、されたい! 羨ましい話だっ!」
そうか。ジャンも喜んでいたし、きっと、楽しいことなのだろう。エミールは、一つ賢くなった気分になった。
「じゃ、じゃあ、こ、こここ今度、教えてください。僕、がんばる!」
「良いぞ! 存分に縛ってくれ!」
これで、また少しルイーゼに近づけた気がする。一歩一歩が大切なのだと、カゾーランも言っていた。
「この親子、いい……ふふ、惚れ直しちゃう」
アンリには聞こえないほど小さな声で、ミーディアが呪文のように呟きながら笑っていた。手にはメモを持ち、恐ろしい速度で大量に文字を書き込んでいる。
初めて会話らしい会話が弾んで、エミールは少し自信がついてきた。ようやく、右手と左足がスムーズに前へ出る。
やがて、ルイーゼに指定された場所に辿りついた。以前にお茶会をした芝桜の庭だ。来たことのある場所の方が、安心するだろうということだった。
ここで、もう少し時間を稼ぐ必要があるらしい。
なにをするつもりなのか、エミールは知らされていないが、とにかく、頑張らなくてはいけないらしい。
「ここは……」
「ま、前に、ルイーゼと、お茶会、したの」
エミールはぎこちなく喋りながら、庭の方へ歩く。夜風に乗って、甘く芳しい香りが漂う。
ルイーゼが教えてくれた花言葉が蘇る。確か、――。
「懐かしい。芝桜の花言葉は、『臆病な心』、『一途』、そして、『忍耐』らしいな」
エミールが思い出すより前に、アンリが口を開く。彼はポカンと口を開けたままのエミールの隣に並び立ち、笑みを湛える。その表情がとても優しくて、視線が奪われたように外せなくなってしまう。
「この庭は、セシリアが私のために造ったのだ」
「……母上が?」
意外だった。エミールにとって、父は立派で眩しくて、手が届かない存在だ。臆病や忍耐などではなく、もっと似合う花が他にありそうなのに。
「最初から立派な人間などいない。お前ほどではないが、私にも軟弱者の愚王と罵られる時期があったのだよ」
「そ、そうなの、ですか?」
「ああ。セシリアが生きていれば、今でも罵られて殴られているはずだろうさ」
アンリはそう言いながら、膝を折って芝桜に触れた。
小さな花一つひとつは地味で弱々しい。だが、敷き詰められた花が月明かりに照らされる様は幻想的で、間違いなく美しかった。
「僕も……僕も、強くなれる、かなぁ」
膝を抱えるように身体を丸め、エミールは拳で袖口を握り込んだ。今にも涙が出そうだし、すぐにでも走って逃げだしたい。
でも、こうして父の隣に座っていたいとも、思った。
初めて、マトモな会話をする。
外が怖くて引き籠っていた時間の分だけ、自分と父の接点は少ないと思う。けれども、今はその時間を取り戻したいと強く思った。
「さあな、私の子だから、ずっと軟弱かもしれん。だが、セシリアの子だ。強くなる」
「僕にとったら……父上は、とっても凄いです」
エミールの知る世界は狭い。自分の部屋と、その周辺が少しわかるだけだ。もしかすると、父の言う通りに彼は軟弱なのかもしれない。でも、エミールにとっては、眩しくて手が届かない存在だ。
「い、いつか……父上のように、なれる、かな?」
引き籠っている自分が、いつかは広いフランセールを治めなければいけない。今のエミールでは、押し潰されて息も出来なくなるほど重苦しい責任だ。
また泣きそうになってしまう。しかし、そんなエミールの髪を撫でるように、アンリが手を伸ばした。
カゾーランやユーグに比べると細い、けれども、エミールよりもずっと逞しい手が頭を撫でる。そして、しっかりと抱きとめるように肩が引き寄せられた。
「では、強くなれ。お前には、その義務があるのだから」
ずっと、勘違いしていた。父は自分のことなど、諦めている。疎んでいると思っていた。
でも、そうではないと、必死で伝えてくれている気がした。他人との関わりが極端に少ないエミールは、彼の想いを全て理解していないと思う。
けれど、たぶん、そうだと感じた。
エミールに突っ込みキャラは無茶であった。
アンリ絡みの思い出話は、割と番外「或る国王の花嫁」より。




