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その101 誰か服を着せてくれよ。

 ギルバート目線。

 余話「或る人形の箱庭」の続きのようなもの。余話の雰囲気で長いです。


 

 

 

 なんの役にも立たない。

 存在している価値など特にない、ただの人形。

 自分の価値は、よくわかっているつもりだ。


「まあ、ギルバート様。またお召物を脱いでしまわれたのですか?」

 優しい笑みは、まるで母親のようで温かい。

 けれども、ギルバートの実母は彼にほとんど興味がない。牢獄のような自室に閉じ込められる毎日を強いる一人であった。

 世話係のハンナは、いつも温かく包むような眼差しを向けてくれる。親なんていないように感じていたギルバートにとっては、彼女が母親のように思えていた。


 ただの世話係。自分は王族で、彼女は奴隷身分。

 この人が自分のことを産んでくれたのなら、よかったのに。

 そんな、ないもの強請りをしてしまう。


「ハンナが着せてくれよ」

「ですから……私を名で呼んではいけないと、いつも言っております」

 困った顔をしながらも、ハンナは丁寧にギルバートの袖にシャツを通してくれる。

 もう十歳を過ぎているというのに、我ながら甘えたものだ。

「ハンナ」

 ボタンを一つひとつ留めるハンナの手に、自分の手を乗せた。ハンナは驚いて、切れ長の目を見開く。


「俺の母上になってよ」


「それは……王妃陛下が健在ではありませんか」

 ハンナは戸惑って視線を逸らす。

 だが、ギルバートは手を離さなかった。


「今、父上に交渉している。ハンナを俺が私的に買い取れないか。そうしたら、どう扱っても俺の勝手だろう? そのうち、離宮でも手に入れるつもりだから、そこで自由に暮らせばいい」

「それは嬉しいのですが……ギルバート様が私のためにそのようなことをする必要は、ありません。私は――きっと、ご迷惑をおかけします」

「俺がそうしたいんだ」

 勿論、子供の浅知恵だ。そう上手くいくとは思っていないし、時間もかかるだろう。

 しかし、今のギルバートは多少自由だ。以前と比べて動ける範囲も広がったし、円卓会議への参加も許可されている。もう少しで、公務も任せてもらえそうだと感じていた。

 着実に自分の地位を築いていけば……ヴィクトリアだけではない。この優しい奴隷も救えるのではないかと思っていた。


 人形みたいに生きているギルバートが、唯一、自分の意思で行動しようと思った。

 それが思い上がりだとは、このときは考えてもいない。


「嫌か?」

「お気持ちは嬉しいです。私には勿体ないくらい」

 ハンナは困りながらも、本当に嬉しそうに笑ってくれた。それが彼女の肯定の意思だと思い込んで、ギルバートは笑顔を弾ませる。

 されど、ハンナはそんなギルバートの手から、するりと自分の手を抜いた。


「私には、娘がいるのですよ」


「娘? その娘も奴隷なのか? だったら、一緒に……」

「産んでから、ずっと顔を見ておりません。何事もなく育ってくれていたら、きっと、ギルバート様と同い年ですね」

 懐かしむような、慈しむような表情は、ギルバートに向けられたものではない。それをはっきりと見せつけられて、ギルバートは口を噤んだ。

「ギルバート様をお世話していると、時々、娘はどうしているのかと考えてしまいます。だから、許してください」

 ハンナは自然な動作で、ギルバートに上着を着せてくれる。


「先に、我が子とあなたを重ねてしまったのは私でした。きっと、それが伝わってしまったのですね」


 そんな言葉なんて聞きたくない。違う。ギルバートは首を横に振った。

 ハンナは口を開こうとするギルバートの唇に人差し指を当てる。そして、優しい手つきでギルバートの黒髪を撫でた。


 温かくて、涙が出そうになる。

 けれども、この温もりは自分のものではない。手に入らない。はっきりとわかった気がして、なにも言えなかった。




 城内を歩く自由が許されたあとも、夜の散策は続いていた。

 真夜中のロンディウムを闊歩する少年と少女。


「今日、あんまり元気がないみたいだけど」

 いつもと違うと感じたのか、ヴィクトリアがギルバートを覗き込む。ギルバートはやり場のない視線を逸らせて、ヴィクトリアから逃げた。

「別に……ちょっとフラれただけだ」

「フラ、れ……!?」

 冗談っぽく言うと、ヴィクトリアは大袈裟に声をあげる。真っ赤になった顔を両手で隠す様は滑稽だった。

「冗談。例え話みたいなもんだ」

「な、なんだい……紛らわしい!」


 ヴィクトリアはストラス伯爵の養女となる前は、市井で育ったらしい。

 ルゴス王家の血を引く彼女の存在は隠されてきた。

 ストラス伯は実の子である彼女を他人として扱って、成長してから養女にしたらしい。


「ヴィーの母親は城にいるのか?」

 そういえば、母親について聞いたことがなかった。

 ヴィクトリアがあまり積極的に話したがらないので避けていたのだが、今は聞きたい気分だ。

 ヴィクトリアは途端に表情を曇らせるが、小さく「ああ、そうだよ」と答える。

「最近は城の中も歩き回れるし、探してやろうか? 名前はわかるか?」

 いつもなら、ヴィクトリアの表情や仕草を見て話す。けれども、今日はそんな余裕なんてなかった。あまり深く考えずに、思いついた言葉を並べてみる。

「あたしは、母さまに会ったことがないから……探したって、どんな顔すればいいのか……」

「でも、母親を救うために女王になりたいんだろう?」

 何気なく問うと、ヴィクトリアがたじろいだ。

「そうだよ。でも」

 迷っている。そんな表情を読み取ることが出来た。

 ギルバートは押し切るようにヴィクトリアを見つめる。ヴィクトリアはしばらく俯いていたが、やがて逃げ場がないことを理解したのか、口を開いた。


「あたしの母さまの名前は、ハンナ・ルゴスっていう名前らしい……今も城にいるのかどうか、わからない」

「ハンナ?」


 ――私には、娘がいるのですよ。


 頭の中で繋がって、ギルバートは目を見開いた。

「ハンナ? ヴィーの母親は、ハンナなのか?」

「え、あ……そ、そういう風に……聞いてるけど……」

 ギルバートは両手でヴィクトリアの手を握った。ヴィクトリアはわけがわからずに瞬きを繰り返すだけである。


「今すぐ、城に帰ろう。ヴィー、母親に会わせられるぞ!」

「え……え!?」

 状況が飲み込めていないヴィクトリアを引き摺るように、ギルバートは踵を返した。

 今日は工業区の辺りを見るつもりだったが、辞めだ。今すぐ、ヴィクトリアを城へ連れて行きたい。

 ハンナはギルバートの世話係で、部屋も近くに設けてある。こっそり戻って呼び出せば、会わせることが出来るはずだ。


「え、ま、待ってくれよ。心の準備が……」

「会いたくないのか?」

 尻込みするヴィクトリアに問いかける。ヴィクトリアは未だに迷っているようだったが、照れ臭そうに少しだけ顔をあげた。

「……会いたい……」

 その言葉を聞いて、ギルバートは急ぐ足を速める。ヴィクトリアも、ギルバートに合わせるように歩を進めた。

「どうしよう。会ったら、なんて言えばいいんだい?」

 城へ向かいながらヴィクトリアは、そんなことを言う。

 きっと、ヴィクトリアを連れていけば、ハンナは喜ぶだろう。今日みたいな悲しい顔ではなく、心からの笑顔でヴィクトリアを迎えるはずだ。


 父との交渉を進めて、絶対にハンナを買い取ろう。

 そのうち離宮で暮らして、いつでもヴィクトリアと会えるようにして……そんな希望が頭に広がった。

 最初はハンナが自分の母親になってくれたらいいと思っていた。その願望もあるが、今はハンナとヴィクトリアが笑う顔を見たい。


 誰かのためにしか生きられない人形の自分。

 今まで生きてきた中で、自から動いて「そうしたい」と初めて思うのだ。

 自分のために行動することが、こんなに楽しいとは思わなかった。甘い期待が胸を占めて、どんどん膨らんでいく。



「ハンナ!」

 城の自室に帰り、ギルバートはハンナを呼ぶ。寝静まった頃合いだが、世話係を呼びつけることに不自然はない。

 部屋の奥に隠れながら、ヴィクトリアは母親と対面するときの挨拶を考えて頭を抱えている。ギルバートは、そんなヴィクトリアを置いて、ハンナの部屋の戸を叩いた。


「ハンナ?」

 返事はない。

 ただ、中で音がする。支度に戸惑っているのだろうか。悪いことをした気がしてくる。

 やがて中から扉が開く。


「これは、殿下。少しお待ちを! まだ処理が出来ておりません!」

 中から出てきたのは、城の兵士だった。名前は知らない。

 どうして、ハンナが出てきてくれないのだろう。ハンナは中にいるのだろうか。

 ギルバートは兵士の足の間から、中を覗き見た。


「……え?」


 狭すぎる部屋を、緋色が染めている。

 何故か足元には海のように広がる紅があり、その中心には見覚えのある姿が沈んでいた。


「ハン……ナ?」


 どうして?

 どうして?

 なにも考えられなくなって、ギルバートはその場に膝をついた。


「国王陛下のお申し付けです。殿下の奴隷を取り替えろと命令がありましたので。寝ている間に処理しようと思ったのですが……申し訳ありません。終わるまで、自室へお戻り頂けますか?」

 何故だ。ギルバートは首を横に振るが、思考が追いつかない。


「ん……なんだ、君は。どこから入った?」

 兵士がギルバートの後ろを見て声を上げる。

 振り返ると、ヴィクトリアが立っていた。

「ヴィー……その……」

 なにか言わなければ。ヴィクトリアに、なにか言わなければ。

 ギルバートは口を開くが、上手く言葉が出ない。言葉が声にならず、なにも言うことが出来なかった。


「あれが、母さま?」

 ヴィクトリアは瞬きもせずに、まっすぐ部屋の中を見ている。表情が失せて、身体が震えているのがわかった。

 突然現れた不審人物であるヴィクトリアの前に兵士が歩み寄る。ギルバートの横を通り過ぎるときに香った血が鼻腔をくすぐって吐き気がした。

「どうやって、こんなところに」

 兵士の問いに、ヴィクトリアは答えない。ただ、兵士を見上げていた。


「殺してやる」


「は?」

 そう呟くが早く、ヴィクトリアは腰に差していた短剣を引き抜く。そして、一点の迷いもなく、しゃがみ込む兵士の喉を掻き切った。

「ヴィー!?」

 ハンナの部屋の中と同じくらいの血飛沫が撒き散らされる。その紅に濡れながら、ヴィクトリアは静かに佇んでいた。


「ヴィー、なにしてるんだ!」

「殺してやる! あたしが、全部!」

 叫ぶヴィクトリアに睨みつけられて、ギルバートはようやく思考が回りはじめる。先ほどまでが嘘みたいに冷静で、頭が澄み渡っている気がした。


 ハンナが死んだのは、ギルバートのせいだ。


 なにも知らなかった。

 だが、知らなかったでは済まされない。


 ハンナ・ルゴスは旧王家の血を引いていた。戯れで王家に飼われていたに過ぎない奴隷。その彼女を「買いたい」と申し出たギルバートの行為は、実に愚かしいものだった。

 ハンナに自由を与えることは許されない。妙な気を起した「人形」の前から排除してしまえと命令するのは当然ではないか。


 そんなことも知らずにギルバートはハンナに自由を与えようとした。

 そして、そこに思い至ることもなく、ヴィクトリアをハンナに会わせようとした。


「全部、俺のせいだ」


 初めて自分で望んだ願いは、酷く浅はかで愚かな未来だった。

 ギルバートはすがるように、短剣を握りしめたヴィクトリアの手を包む。


「ヴィー、頼む……頼むから、もう辞めてくれ。俺のせいだから……俺がハンナを殺したんだ。だから、俺だけを憎んでくれないか?」

 ヴィクトリアはこのまま、ハンナを殺せと命じた国王も殺す気だ。いや、目についた人間は全て殺してやるつもりなのかもしれない。

 今の彼女は冷静ではない。いや、冷静になっても、また復讐しようとするかもしれない。


 子供だからと油断する兵ばかりではない。すぐに捕まって殺されることは見えている。


 守らないと。


「ヴィーがこんなことをする必要はない」

 ヴィクトリアが聞き入れてくれることを願ってすがる。

「ギル……」

 ようやく、ヴィクトリアはギルバートに視線を移す。短剣を握りしめる力が緩むのを感じて、ギルバートは素早く手から取り上げた。


「殺すなら、俺だけ殺せばいい。俺の命ならいつでもやる。だから、もう辞めろ」

 ハンナを殺してしまったのは、俺だから。

 取り上げた短剣を自分の首に突きつける。

 ヴィクトリアの表情が揺れて、発していた殺気がおさまるのがわかった。


「ヴィー。殺すなら、俺だけを殺せ」


 初めて自分が願ったことは叶わなかった。

 だから、今度は多くを望まない。浅はかで甘い希望など持たない。

 ただ、この少女を守ることが出来たら、それでいい。



 大人しくなったヴィクトリアを速やかに帰して、ギルバートはその場を取り繕った。

 兵士を殺したのは自分で、お気に入りの奴隷を殺されて逆上したから。今は反省しています。そこには誰もいなかったし、ギルバートはどこへも行っていない。そういうことになった。

 ハンナの遺体が「処理」される光景を見て、ギルバートに言葉はなかった。はじめに遺体を見たときは、あんなに頭が真っ白になったのに、そのときは冷静だったと思う。


 ヴィクトリアはその日以来、ギルバートのことを避けるようになった。

 最初は視線を合わさず、戸惑った様子。それが次第にきつく睨むようになり、邪険に扱う言葉が増えた。仕舞いには容赦なく殴る始末。

 嬉しかった。

 ヴィクトリアは、ちゃんとギルバートを憎んでくれている。ギルバートだけを憎もうと努力してくれている。

 彼女を守っているのだと実感出来て安心するのだ。


 自分が拠り所にしていた人がいなくなった。

 母親のように優しい笑顔をくれる人がいない。名前を呼ばれて、困った顔で窘める人がいない。

 服を脱いでも、着せてくれる人もいない。

 そんな空虚など、どうだっていい。


 だって、俺はヴィーを守っているんだから。




「酷い有様だな、小僧」

 エプロン一つで蹲るギルバートに、声が降る。

 いつの間に、力尽きてしまったのだろう。昔のことを今更になって思い出していたのは、走馬灯のようなものだろうか。ギルバートは腹に出来た傷を押さえて、低く呻いた。

「逃げ出した癖に、こんなところで力尽きるとは……情けない奴だ」

 黒髪を無理やり掴まれて、視線を上げさせられる。視線の合ったアイスブルーの瞳が、冷やかに自分を見下ろしていた。


「俺は……ヴィー、を……」

 こんな怪我を負って、なんの役にも立たない。ただの死にかけた人形だ。

 それでも、ヴィクトリアのところへ行こうとする自分の行為が本当に愚かに感じている。けれども、行きたいと願ってしまう。

「死んでも知らんぞ」

 溜息が聞こえる。視界が霞んで、相手がどんな表情をしているのか、わからなかった。

 傷のせいで熱が出ているようだ。息があがって、頭がぼんやりとする。


 少し遅れて、身体になにかが被せられた。

 女物のコートのようだ。


「……オッサン……?」

 この段になって、初めて相手の名前を認識した。

 セザールはギルバートに被せたコートの袖を通させる。ボタンを上から留めると、エプロン一枚の姿が完全に隠れた。


「勘違いするなよ、小僧。我にはシャリエの令嬢を守る義務があるのだ。ついでに運んでやっても良いが、その先は死んでも責任は負わん」

 満身創痍のギルバートを麻袋かなにかのように担ぎあげて、セザールが息をつく。

 安定した歩みに揺られながら、ギルバートは不服を口にしたくて仕方がなかった。


 よりにもよって、こんなオッサンに服を着せられるなんて、あんまりだ。というか、どうしてわざわざ女装に着替えているのだろう。着せられたコートも女物だ。


 本当に、あんまりだ。最悪だ。

 

 

 

 余話っぽくなって、すみません。 

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