61愛すべき上司
美人が怒ると怖い。
フランツを始めとしてエイヴァルトの隊に所属する騎士たちは、椅子に座って足を組み、苛立たしげに指で肘掛けをコツコツと鳴らしているエイヴァルトの様子を遠巻きに窺っていた。
クラーラとの交際も順調で結婚間近。念願のクラーラ製ピアスも手に入れたエイヴァルトの機嫌が悪いのは、事務方への異動願いを却下されたせいである。
「隊長って、本気だったんですね」
若い騎士がこっそりとフランツに話しかけた。
そう、エイヴァルトは本気だ。
本気で現場を辞し、命の危険がない、夜勤がない、仕事さえちゃんとしたらお休みも取り放題の事務方への転属を希望したのである。
なんのためかといえば、クラーラと過ごす時間確保のため。クラーラを守るために常に側にいるため。間違って出世でもしようものなら忙しくなってしまう。それを回避するために事務方への異動を目論んだのだ。
しかし残念ながらエイヴァルトの目論見は「馬鹿を言うな」との上官のひと言で退けられた。
それも当然だろう。
かつての実家、元トリン侯爵家が不正をやらかしたせいで出世が遅れるとはいえ、エイヴァルトは若い騎士のなかでも一、ニの実力を有している将来有望な騎士だ。上が簡単に手放すはずがない。
「あの人はなんにでも本気だ。上官に却下される前は頭の中がお花畑だったんだろうなぁ」
「目論見外れてご立腹ということですね」
「いや、次の作戦を考えているんだろう」
これは最悪騎士を辞めかねない。何しろエイヴァルトは近頃ようやく貴族と庶民の交際から結婚に至るまでの違いを知って、ものすごぉ〜く落ち込んでいたのだ。
クラーラと一晩二人きりで過ごして手をだしていないと聞かされた時の驚きといったら。なんの冗談かと思った。
フランツだったら好きな女性と二人きりになった時点で、絶対確実に手を出している。
僭越ながらも平民がしているごく一般的な交際についてご説明さしあげると、エイヴァルトは衝撃を受けていた。
真っ青になって「私はクラーラからの誘いを拒絶したことになるのか」と震えるエイヴァルトの姿はなかなかのものだった。
貴族の女性が純潔を大切にしなくてはいけないことはフランツだって知っている。なのにエイヴァルトはその逆を知らなくて、クラーラのためにいろいろとお断りしていたようだ。
「そんなに落ち込まなくても大丈夫です。いつでもどこでも挽回できますよ〜」と、少し冗談交じりに明るく励ましたら。「結婚してからと約束してしまった」と嘆いていた。
自分の欲求を満たせなかったことじゃなく、無学のせいでクラーラの意に沿えなかったと落ち込んでいたのだ。
なんて面白い。
訓練を終えた上半身裸のエイヴァルトを前にして、「きゅうっ」と変な音を出して意識喪失したクラーラのことだ。どのみち完遂できなかったに決まっている。そんなクラーラにエイヴァルトが手を出せるなんて思えない。
フランツはエイヴァルトを聖人認定した。
フランツとしてはエイヴァルトとクラーラの幸せを願っている。けれどエイヴァルトに騎士団を辞めるような選択はさせたくない。なにしろ彼はフランツたちにとってとてもよい上司であり、信頼できる人なのだ。そこに面白いまで加わったら一生ついていくのに迷いなんてない。
そんなわけでフランツは騎士団舎にクラーラを連れてきた。エイヴァルトに会わせるためじゃない。それとなくクラーラと会話して、その内容を聞かせるためにだ。
エイヴァルトは有能なのでフランツがこそこそしていたら必ず気づいて様子を窺うはずだ。特にそれが愛しのクラーラとなら「いったい何をしているのだろう」と、すべてを把握するために気づかれないよう慎重に動くはず。
「ねぇクラーラ。もしも、もしもの話。エイヴァルト隊長が騎士を辞めるって言ったらどうする?」
「う〜ん。それはちょっと残念かなぁ。でもエイヴァルト様の選択なら応援する」
「えぇぇっ、応援しちゃうの!?」
目論見外れてエイヴァルトを後押ししてしまった。フランツはどこかで聞いているであろうエイヴァルトの所在を探すが見つけられない。
もしかしたら、絶対にないだろうけれど、本当にもしかしたらクラーラの来訪に気づいていない可能性もある。そうだったらいいなと願うが……きっとないだろう。
フランツは笑顔を浮かべたまま心の中で涙を流した。
「だって、大好きな人の気持ちは尊重したいじゃない?」
「そうだけどっ、そうだけどさっ。ちょっとは残念に思うんだよね!?」
「そりゃあね。だってエイヴァルト様って騎士の制服がとっても似合って素敵なんだもの。その姿が見れなくなるのはかなり残念だわ」
「ありがとうクラーラ、君が制服フェチで良かったよ!」
喜ぶフランツはクラーラの手を取って大げさに握手した。
「フランツさん、意味分からないわ」
意味が分からなくたってどうでもいい。フランツからすると良き上司であるエイヴァルトがこのままでいてくれることが何よりの望みだ。鬼のような上司に変わったらたまったものではない。
そんなことをしていたらどこからともなくエイヴァルトが現れた。やっぱり近くにいたようだ。
「エイヴァルト様!」とクラーラは大喜びして弾むように駆け寄っていく。表情にはあまり表さないがエイヴァルトもとても嬉しそうだ。
後にフランツはエイヴァルトから「とんでもない間違いを犯すところだった」と感謝された。
「いえいえどういたしまして。楽しい騎士生活のためですから」と笑顔で正直に返したフランツであった。




