55不自然な笑顔
本来ならエイヴァルトは任務について隊の指揮を取らなければならない。これはエイヴァルトの隊が担当する地域で起きた事件だ。
騎士であり、十の部隊を預かる部隊長の自宅が襲われたのも重大なことだ。その部隊長の家族が襲われたのもまた重い。
詳しく事情を聴かなければいけないけれど、被害者たるクラーラがエイヴァルトの胸にしがみついて離れない。エイヴァルト自身もクラーラを離さず、二人を見下ろすフランツは「まいったな」と頭を掻いていた。
「犯人は捕まったし、もう抱っこしたままでも問題ないですね」
肩の関節を外されて足を折られたアヒムは、容赦なく縄でぐるぐる巻きにされて、悲鳴を上げながらつい先ほど連行された。
駆けつけてこの場に残った隊の騎士たちもクラーラに同情的で、非協力的で仕事の邪魔をする被害者だと思う者はいなかった。恐怖に怯えてエイヴァルトにしがみつく姿は哀れを誘う。
エイヴァルトもこのままでいいと受け入れていた。身を硬くして怯えを隠そうとする姿に胸を痛め、手を放す気なんて微塵もなかった。
けれどもアヒムに加担する輩がいることが想像できたので、そいつを逃さないための聴取を怠ることは後の安全のためにも疎かにできない。
「クラーラ、無理なら答えなくていい。アヒムは何か言っていたか?」
エイヴァルトが見ていないところで何が起きたのかも知りたかった。優しく穏やかに、負担にならないよう様子をみながらぎゅっと抱きしめて背中を撫でながら問う。するとクラーラは小さく頷いた。
「何を言っていたのか話せるかい?」
また小さく頷いたものの、「ううぅ……」と声にならない。
これはクラーラにとって二度目の経験だ。一度目はこんなふうにはならなかった。
前回襲われたのは人通りがない裏通りでも外で起きたことで、助けが来る希望があった。対して今回は自宅という密室だ。アイザックは不在でエイヴァルトとも別れたばかり。助けを望めない恐怖と絶望に支配されたに違いない。
「アヒムは仲間がいるようなことを言った?」
クラーラはこくこくと、幾度か小刻みに頷く。はぁはぁと肩で息をして、過呼吸になるのではと案じて中止しようとしたところで、「都をでる目処が立った」と、クラーラは一気に声を吐き出した。
「アイザックが迎えに来ていたことも知ってた。未来の夫だって気持ちの悪いことを言われた。身の毛がよだつ!」
ほとんど叫ぶように一気に言い切った。
それを聞いたエイヴァルトはフランツを睨む。聡い彼は身内にアヒムに協力する裏切り者がいることを理解して、「了解」と残してこの場を去った。
犯罪者がそうやすやすと都を取り囲む城壁の向こうに行くことはできない。すべては騎士団の管轄だ。徹底的に調べて捕まえろと、エイヴァルトはフランツに視線で命じたのだ。
壊れた扉は隊員が既に修理していた。けれどクラーラをこの家に置いておけない。エイヴァルトが一緒にいてもよかったが、精神的に傷を負っているので医師の判断も仰ぎたかった。
アヒムはクラーラを妻にするためにここに来たのだ。アヒムにとって危険な場所に違いないのに、逃亡前に侵入して待ち伏せするとはかなりの執着だ。
本来ならクラーラを攫って早々に都を出るつもりだったと思われる。工房付近で機会を狙っていたらアイザックではなくエイヴァルトが現れた。それでアイザック不在を悟り、先回りしてここに隠れていたのだ。
窓から忍び込むと目立つので、玄関からの侵入で間違いない。入り口付近にむりやりこじ開けられた跡はなかった。鍵穴に傷をつけないのだからよほど腕がいいのか。アヒムの背後が窺える。
「クラーラ。身の毛がよだつが何か言える?」
「……顔を舐められた」
「分かった。直ぐに消毒しよう」
エイヴァルトはクラーラを抱いてキッチンに向かう。布を濡らして「拭いてもいいか?」と声をかけると、頷いてようやく顔を見せてくれた。
表情がなく蒼白だった。
口を引き結んで、どこもかしこも力が入っている。エイヴァルトが濡れた布を額から頬へと滑らせると、クラーラは抱えられているのに構わず乗り出してバシャバシャと冷たい水で顔を洗った。
不安定だし危ないので足をつけてやる。不安にさせないためにクラーラの身体から手を離さない。その間もクラーラは無心に顔を洗い続けて、最後には両手で顔を覆ってしばらく動かなくなった。
どのくらいそうしていただろうか。
クラーラが不意に顔を上げる。濡れた顔を拭きもせずに真っ直ぐに立ってエイヴァルトと視線を合わせた。
「びっくりし過ぎて動揺してしまいました。ごめんなさい」
「い、いや……。私こそ、助けるのが遅くなってすまない」
エイヴァルトは強烈に不自然さを感じた。なぜならクラーラが笑ったからだ。
まるで何事もなかったかのように、顔色を悪くしたまま、口角を上げて目尻を下げたのだ。濡れたままなので、滴がぽたぽたと落ちている。目が赤くなっているので泣いたのだろうか。まさかそれを隠すために顔を拭かないのだろうかと、何とも言えない不安がエイヴァルトを襲った。
「遅くなんてありませんよ。それよりびっくり。駆けつけてくれるなんて。愛の力かな?」
遅いに決まっている。エイヴァルトはクラーラが窓を開けて手を振るのをみこして、彼女が慌てて躓いて転んだりしないように、敢えてゆっくりと階下へ向かったのだ。
クラーラが窓を開ける前に先回りしようと急いでいたなら、もっと早く異変に気づけていた。そもそも気づけたのはクラーラの習慣のお陰だ。
「クラーラ、こっちにおいで」
ずっと触れているのに遠くに感じて怖かった。顔を濡らしたままのクラーラを抱き寄せる。
「怖かっただろう。一晩中一緒にいたいと言えばよかった。後悔している。本当にすまない」
「心配かけてごめんなさい。一晩中一緒にですか? それは嬉しいな」
胸に抱いた声は震えていた。




