53地獄
エイヴァルトに結婚を申し込まれた。半年の交際期間を設けて、未来に向かって進むことが決まった。
一日悩んだのになんてことだ。今日の終わりにとんでもない幸福が待っていた。煌めく星空も祝福してくれている、そんな気がしてならない。
このまま一緒に過ごしたかったけれど、はしたない娘だと思われたくなくて言わなかった。エイヴァルトから誘われたら喜んでどこにでも付いて行っただろうが誘われない。でもがっかりはない。何しろ二人の時間は始まったばかりだ。きっとこれから喧嘩だってするだろう。それすら楽しみなほどクラーラは浮かれていた。
集合住宅の二階に到着する。エイヴァルトは「遅くなる前に送り届けるつもりだったのに申し訳ない」と、屋台で夜ご飯を買って持たせてくれた。
一晩中だって一緒にいたかったですと言いたい気持ちを必死にこらえて「ありがとうございます」と温かい紙袋を受け取る。
中でお茶でもと誘いたかったが、断られるだろうなと予想できたので言わなかった。三度もキスをしておいてなんだが、エイヴァルトはとても誠実な人だ。アイザックがいない家に上がり込むなんてしないに決まっていた。
「貸していただいてありがとうございました」
「ああ」
上着を脱いで返却すると、エイヴァルトはその場で袖を通した。
クラーラには大きすぎるそれは、エイヴァルトが袖を通すとぴったりだ。その仕草だけでも普段は隠されている筋肉が自在に動く様が目についてしまう。あまりにも色っぽく見えてしまい、頬が火照ってしかたがない。
「また明日。工房で会おう」
「はい。気をつけて帰ってくたさい」
互いが笑顔で別れを告げる。エイヴァルトはクラーラが扉に鍵をかけるのを確認してから足音を響かせ帰って行った。
クラーラは鍵をかけて部屋の明かりをつけた。それから買ってもらった包みをテーブルに置くと急いで自室へと向かう。窓からエイヴァルトに手を振り見送るためだ。
部屋の扉を開けて窓へ手を伸ばすと同時に、口を塞がれて腹に腕が回った。そのまま後ろに引っぱられてベッドに放り投げられる。
驚いて悲鳴をあげようとしたら、塞がれていた口は大きな手で顎ごと掴まれ、暴れる体も抑え込まれた。耳元で「大人しくしろ!」と低い声で怒鳴られて全身が凍り付く。
「お前、あの男とできてたのか」
暗闇の中に浮かび上がったのは大きな男。リビングからの明かりを背後にして顔が見えないが、その声に聞き覚えはあった。
「うぐぐっ!」
アヒムと男の名を呼ぶが、口を塞がれているのでくぐもった音が鳴るだけだ。見下ろす男、アヒムは愉快そうに喉を震わせ笑いだした。
「久しぶりだなぁ。俺のこと忘れたのかと思ったぜ」
忘れるわけがない。でもどうしてここにいるのか。鍵もかかっていたのにどうやって侵入したのか。
混乱する頭で考えるが恐怖で考えがまとまらない。あるのは今目の前に男がいて、クラーラを組み敷いているという現実だけだ。
この男は違法薬物の件で追われていた。他の者は騎士団に拘束されて処分を受けているが、アヒムは逃げていて捕まったと聞いた覚えがなかった。
逃げているのならどうしてこんなところに姿を現したのか。何が面白いのかずっと笑っていて不気味すぎる。
「俺がここにいるのが解せねぇって顔してるな。都を出る目処がついたんでお前を迎えに来たに決まってるだろ」
クラーラたちの住んでいる都は、高い城壁に囲まれているので人の出入りを管理しやすい。警備は騎士団が担っている。常に見張っているので犯罪者は逃げ出すのが難しいのだ。
出る目処がついたというのは、手引きする人間が見つかったのだろう。悪い輩は何処にでもいるものだ。
でもクラーラはアヒムとなんか行かない。迎えに来られても迷惑なだけだ。それに怖い。力でねじ伏せるような男となんて一緒にいられるわけがない。
なのに意思がどんなに強くてもアヒムには敵わなくて。乱暴に猿ぐつわをされただけでなく両手も縛られた。
「縛られた姿もぐっとくるな」
馬乗りになったまま、口と手の自由を奪われたクラーラを満足気に見下ろすアヒムは気持ち悪すぎて身震いした。
「近頃はアイザックの奴がぴったりくっついていたが、あの男が一緒だったってことは泊まりの任務だな。だとしたら時間があるってことか」
元騎士なだけあって正しく予想されてしまう。
見下ろすアヒムは、とんでもなく下卑た笑みを浮かべてクラーラの顔の横に両手をついた。かと思えば身を寄せて、肉食獣が狩りで捕まえた獲物をなぶるかのように頬をべろりと舐められ、悍ましさに震え上がる。
クラーラは声にならない悲鳴を漏らすしかできない。その声には外にまで届く力はなく、これから起きるであろう悲劇に身を震わせた。
「未来の夫を前にしてなに怯えてんだ?」
この男はどうしてこうもクラーラに執着するのか。逃げるならさっさと一人で逃げればいいものを。アイザックも住む家に忍び込んでまでクラーラを逃亡に巻き込もうとする。犯罪者なのにその危険が理解できないのだろうか。
「ここで初夜を迎えるのも悪くないな」
悪いに決まっている。
ぞっとする言葉にクラーラは死に物狂いになって暴れた。縛られた手を振り回して両足をばたつかせる。でもなんの役にも立たない。屈強なアヒムはクラーラをやすやすと抑え込んだ。




