51抱きしめてあげる
「迎えが来てるよ」と声をかけられて顔を上げたら、同じ年齢の同僚がクラーラを見下ろしていた。
もうそんな時間なのかと時計を確認すると、退勤時刻だけれどもいつもより一刻ほど早い。
「アイザックさんじゃないけど迎えで間違いない?」
前に立つ彼が体をずらす。工房の入り口にエイヴァルトが立っていた。
「エイヴァルト様!」
アイザックは残業を見越して工房から人がいなくなったころに迎えに来てくれていた。エイヴァルトと仕事が終わる時刻が違うのかもしれない。
嬉しいはずなのに、エイヴァルトにはとんでもないことをさせてしまった自覚があるせいで複雑な心境だ。クラーラは自分がエイヴァルトを騙す悪女のような気がしてしまう。
慌てて帰り支度をしたものの、彼の姿を目にすると足が止まった。「クラーラ、大丈夫?」とエイヴァルトが来たことを教えてくれた彼が心配そうに顔を覗き込む。「大丈夫よ、お先に」と挨拶して、おずおずとエイヴァルトのもとに向かった。
「来てくれてありがとうございます」
「顔色が悪い。大丈夫か?」
「大事なお話があります」
「話? 分かった、行こう」
促したエイヴァルトが手を差しだす。
「え?」
「手を」
大きな手がクラーラを誘っていた。
え? 手をつないでもいいの? と、クラーラはゆっくりと彼の手に自分の手を重ねた。
硬くて大きな手に引かれて町を歩く。
間もなく夕日が沈んで辺りは暗くなるだろう。連れられて向かった先は、人通りの少ない川辺にある公園だった。
川に向かって置かれているベンチに並んで座る。「少し肌寒いな」とエイヴァルトが制服の上着を脱いで肩にかけてくれた。
彼の匂いと温もりに包まれて抱きしめられているような気持ちになる。とんでもないことをしてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだったのに、こんなことで浮かれてしまいそうになる自分が嫌だった。
「何かあった?」
見つめてくる碧い瞳が不安そうに揺れていた。きっと自分の瞳も同じように揺れているだろう。
「エイヴァルト様が貴族じゃなくなったって聞きました。本当ですか?」
「ああ、そのことか」
まるでなんでもないことのように、エイヴァルトは緊張を緩めて目を細めた。
「近々話そうと思っていたが、君の耳に入ってしまったのだな」
「わたしのせいですね?」
「クラーラ?」
何が言いたいのか分からないらしく、エイヴァルトは少しだけ首を傾げていた。
「わたしのせいでエイヴァルト様は貴族を辞めちゃったんですよね?」
「違うよ」
すぐに否定したエイヴァルトは、椅子から離れてクラーラの前に膝を付くとその手を取った。碧い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
「きちんと話していないせいで君を不安にさせてしまったようだね。貴族籍を抜けると決めたのは君のせいではない。私にはあの家が合わなかっただけなんだ」
エイヴァルトはクラーラの手を握ったまま、まるで何かをあきらめたかのような寂しい笑みを浮かべる。
「クラーラ、君は母親に抱きしめてもらったことがあるかい?」
そんなの当たり前だ。母はいつだって優しくて、ときどき怖くて、綺麗だけれど豪快なところがある人だった。
母親のことを思い出しながら頷けば、エイヴァルトは「良かった」と安心したように頬を緩めた。
「私はね、それがないんだ」
「ないって……お母さんに抱きしめて貰ったことがないの? ご両親を亡くされていましたか?」
そう言えば聞いた覚えがない。よく考えるとエイヴァルトは貴族なこともあって知らないことがいっぱいだ。クラーラと同じように親を亡くしているのかと思ったがすぐに否定された。
「父も母もいるよ。けれど私は両親から抱きしめて貰った記憶がない」
「え? そんなことってある?」
驚いたクラーラの手をエイヴァルトは、ぽんぽんとあやすかのように優しく二度叩いた。
「私が生まれた家は侯爵の位を賜わっていた。その侯爵家に相応しい人間になることが私に課せられた役割だった。けれど私は合格点に達することがなく、役立たずとして今日まできたんだ」
役割との言葉に、状況が理解できなくてクラーラは言葉を失った。
言っている意味は分かるのだ。けれど役割とはなんなのか。相応しい人間になるために役割を課せられたとしても、生まれた子供を抱きしめるくらいするものではないのだろうか。
クラーラには生まれた時から父親がいなかったし、母親もとうに亡くしてしまった。母親の実家とは絶縁していてどこに住んでいるのかや名前すら知らない。
それでもたくさんの愛情を受けて育った。
母もアイザックもクラーラを抱きしめてくれるし、クラーラだって抱きしめるのだ。
それが当たり前の世界で育ったせいで、エイヴァルトの状況を即座に理解することができない。
「私は子供の頃からずっと侯爵家の人間として相応しくなるために努力し続けた。けれど彼らの望むようになることはできなかった。騎士になってからも平民出身の騎士に負けて、侯爵家に顔向けできないまま日々を過ごしてきた」
優しく微笑んだまま語るその様は、まるで何もかもをあきらめているようだった。違う。あきらめているようではなく、望んでも叶わない願いだと理解してとっくにあきらめているのだ。
エイヴァルトはきっと家族に認めて欲しかったに違いない。抱きしめて欲しいと、記憶に残るずっとずっと小さな頃から願っていたに違いない。
「そんな中で婚約者を紹介された。侯爵家に有利な結婚だ。私はその時になってようやく自分の状況に気づいて、これが死ぬまで続くのだと悟り絶望したんだ」
クラーラは言葉を挿むことなくエイヴァルトの告白に聞き入る。どう言葉をかけていいのか分からなくて、ただ黙って聞くことしかできなかったのだ。
そんなクラーラの心情を察しているのだろう。エイヴァルトは微笑みを消さない。
「だから除籍されるよう、貴族を辞めるために何をするべきなのか考えて実行した。幸いにも王太子殿下がご理解くださり、大きな問題もなく望みが叶えられた」
「王太子様が理解してくださった?」
「そうだよ」
頷いたエイヴァルトの真意を探りたくて碧い瞳をじっと見つめた。けれど何も分からない。ただその言葉から王太子はエイヴァルトの味方でいたということが見えるだけだ。
「私は生きていくために今を選んだ。だから私が貴族でなくなったのは君のせいじゃない」
生まれ育った家が絶望するほどの環境だった。大人になってようやく気づいて離れたのだとエイヴァルトは告げた。
「もしかして、君は私が貴族でいたほうがよかった?」
「そんなことっ!」
違うと必死に首を横に振った。
「そんなことないわ。でもわたし、エイヴァルト様がわたしのせいで貴族を辞めたのだと思ってしまって。それに王太子様のご理解って……あとから酷いことを命じられたりしない?」
王太子という身分はクラーラに恐怖を抱かせる対象だ。不安で瞳が揺れてしまう。
「そんなことをなさるお方ではないよ」
エイヴァルトは安心させるように瞳を揺らさず、優しく穏やかに「大丈夫だ」と告げる。けれども不安だ。
「わたし、王太子様とお会いしたことがあるんです。あまりいい印象がなくて。それに悪癖や妄想癖もあるってラインスさん? だったかな? そんなふうに言ってました」
「君が殿下と関わりがあったことは聞いている。君にしたことを殿下は反省しておられた」
「エイヴァルト様って、あの方と親しいのですか?」
「私のために力を貸してくださる程度には」
それって本当に親しい間柄ということではないだろうか。
エイヴァルトはディアンのことを悪く思っていない様子だ。それに辛いエイヴァルトの立場を理解してくれたのが本当なら、人の痛みの分かるお方に違いない。
それなら本当に大丈夫なのだろうか。何よりもエイヴァルトがそう言っている。彼の味方なら信じてもいいのだろうか?
クラーラは漠然と抱いていたディアンに対する不安がすっとなくなっていくのを感じた。
それに自分のせいで貴族を辞めたのだと思っていたのも間違いだったと分かり、クラーラは心からほっとして体の力が抜ける。
「よかった」
クラーラはエイヴァルトに握られていた手を抜いて、彼に向かって大きく腕を開いた。
「来て、エイヴァルト様」
「クラーラ?」
意味が分からないのだろう。エイヴァルトは碧い瞳を瞬かせると、ほんの少しだけ首を傾げた。
分からないことが事実だという証拠だ。
悲しくなったけど表に出さずに笑って見せる。
「過去には行けないから無理だけど、今日からはわたしがエイヴァルト様を抱きしめるわ」
幼い頃に得られなかった温もりを過去に戻って与えることはできない。だけど今この時から過去の分まで思いっきり抱きしめて愛情を示すことはできる。
クラーラは世界中の誰よりもエイヴァルトが好きだ。彼を抱きしめて愛を示すのには適任だろう。この役目を他の誰かに譲る気なんてないし、クラーラ自身が彼を抱きしめたくてたまらない。
呆気に取られるエイヴァルトにもう一度「来て、エイヴァルト様」と声をかけて急かす。彼が飛び込んできたらぎゅっと抱きしめて、緩い癖のある淡い金色の髪にキスをするのだ。
「クラーラ、君は……」
目元を赤く染めたエイヴァルトが苦しそうにクラーラを呼ぶ。でもこれは拒絶ではない。きっと子供じゃないのにとでも思っているのだろう。
その証拠にエイヴァルトが腕を伸ばした。
恐る恐るだけど、待っていたら大きな体でぎゅっと抱きついてくれる。
クラーラもエイヴァルトの背中と頭に手を伸ばして優しく撫でた。
本当は母やアイザックがしてくれたように、頭のてっぺんにキスしたかったけれど、強い力で抱きしめられているので身動きができない。だから目の前の側頭部に唇を押し当てて「ちゅっ」とリップ音を鳴らしたらエイヴァルトが息を呑んだ。
何かに耐えるように小さな唸りが耳に届く。
もしかして泣いているのだろうか?
大丈夫、これから会えるたびに何度だって抱きしめるから。そんな気持ちを込めてなでなでしていると、エイヴァルトが「クラーラ!」と叫んで離れてしまった。
もっとぎゅっとしていたかったのに残念だ。
それでも彼の手はクラーラの二の腕を掴んでいる。
「エイヴァルト様?」
「クラーラ、結婚しよう!」
「えっ!?」
びっくりして目を丸くしたら、エイヴァルトの顔が息が触れるほど接近した。あまりにも接近し過ぎたものだから唇同士がひっついてしまった。
あ、違う。
キスされたのだと理解して。
その途端に体中の血が頭に上るのを感じた。




