47トリン侯爵家没落
とんでもないことになった。本当にあの男はなんてことをしてくれたのだと、イーサンは幾度となく転びそうになりながら、ほうほうの体で仕事部屋に戻った。
血迷ったのかと怒鳴りたいが、何があったのかなんて二の次だ。無能のすることなんて理解できるはずもなく、考えるだけ無駄と事実だけに目を向ける。
王太子に刃を向けるなんてトリン侯爵家取り潰しの危機である。
たった今この目で見たことが信じられないが間違いない。驚き過ぎて上手く思考が働かないが、エイヴァルトをこのままにしておくことができないのだけは分かっていた。
国の中枢である宰相がいる建屋。多くの人間が働いているが、イーサンが部屋を同じくする者は誰一人としていない。一緒に仕事をする弟アーサーの姿もなかったが、不審に感じる間もなくペンと紙を取った。
震える手で文字がうまく書けない。
インクが溢れて苛つき、ぐしゃっと紙を握りつぶしたところで目の前にあるそれに気づいた。
「どうしてこんなところに?」
それはかつてエイヴァルトから押し付けられた除籍届だった。握りつぶして捨てたはず。
「記憶違いだったか? 何にしても今はありがたい」
日付も今よりずっと前だ。紙が多少よれているがインクもしっかり乾いているし、なんにしてもエイヴァルト直筆のものである。当主でもないイーサンの独断によるものではなく、本人が望んだものである何よりの証明だ。
「あとは閣下の印か」
除籍届は宰相の決裁が必要になる。認められるには審議を重ねてからになるのでそれでは遅かった。エイヴァルトが王太子を切りつけた咎からなんとしても逃げなければならない。
そのためには早急にエイヴァルトを除籍させる必要がある。当主のライハインツや父カーネスに相談している暇もない。そもそもトリン侯爵家が助かる道はこれ一択だ。
書類を胸のポケットに隠して宰相の執務室を訪問した。運のいいことに誰もいない。
イーサンは周囲を警戒しながら入室すると、大慌てで執務机に向かい、机に置かれている印鑑に手を伸ばした。
朱肉を付けて体重を乗せながら除籍届に押し付ける。乾くのも待たず決裁済みの書類を入れる箱の一番下に潜り込ませた。
これでエイヴァルトはとうの昔にトリン侯爵家から除籍されていたことになる。王太子に刃を向けたからにはトリン侯爵家もまったくの無傷ではすまないかもしれないが、無関係を貫いて突っぱねるしかないだろう。
「まったく。顔以外はなんの役にもたたない奴だったな。その顔すら役立てずに終わるのか。トリン侯爵家の面汚しめ」
難なくことを終えて額の汗をぬぐったイーサンは仕事を放り出して屋敷へと戻った。一族存続の危機だったのだから仕方がない。
近頃めっきり足が悪くなり歩くのに難儀している当主ライハインツの執務室に集まった面々は、イーサンから事の顛末を聞いてそれぞれが悪態を吐いた。イーサンはその様を満足気に眺める。自分のお陰で危機を脱したのだ。
「追求された際は、エイヴァルトの除籍を宰相が認めたと突っぱねろ。審議を忘れるミスを犯したのは奴だ、こちらは関係ない。判を押したのは間違いなくセバスティアンで押し通せ」
祖父ライハインツの命令に異を唱える者はいなかった。父カーネスや弟アーサーも黙って頷く。
「ノートリア子爵家との縁談をなかったことにはできません」
カーネスの言葉にライハインツは「分かっている」と、杖で床を叩いて苛立ちを表した。
「イーサンの長男とノートリア子爵家の末娘との婚約を整えろ」
反論は許されなかった。年齢の合う相手が他にいないため仕方がない。跡取りとなる男子を手放すのは惜しいが、子供なんてまた作ればいだけだ。
「ノートリア子爵に、エイヴァルトはとっくの昔に除籍になっていたと、侯爵家としても不本意であったために報告が遅れたのだと詫びておけ。どのみち抵抗せんだろう。採掘技術がなければ見つかった鉱山もただの山だ」
ノートリア子爵領でみつかった鉱山の金の含有量は、カルディバー王国において随一のもになると予想されている。
ただし岩盤が硬く、採掘には特別な技術が必要だった。今は廃れてしまったが、トリン侯爵家お抱えの技術者は長年培われた経験を有している。ノートリア子爵領の金を採掘するには彼らの技術が不可欠だ。
いずれは取れた金の権利すべてを横取りするつもりでいるトリン侯爵家としては、一族の者からノートリア子爵家へ婿入りさせるのは絶対条件なのだ。
なにしろトリン侯爵家は賄賂や侯爵家としての見栄のために散財し尽くしていた。領地からの収入が減ったせいで侯爵家は既に傾き始めている。豊かだった領地は廃坑だらけで、農業に転化するには技術も時間も不足していた。
そうして手はずを整えた翌日。なんの沙汰もないことを訝しげに思いながらも、イーサンとアーサーの兄弟は素知らぬふりで出仕した。
いつもの調子で流れる時間に眉を寄せながら、いつ呼び出しを受けるかと緊張した一日が過ぎる。
王太子が臣下に刃を向けられたのになんの騒ぎにもなっていない。昨日の出来事を目撃するきっかけとなったラインスの姿がなく、秘密裏に片付けるつもりでいるのかと考えた。
もしそうだとしても、血縁者であるイーサンが普通に仕事ができる状態なのはあまりにも不自然だ。
さすがにおかしいと気付いて騎士団舎へと向かえば、何食わぬ顔で仕事をしているエイヴァルトがいるではないか。
食って掛かりかけたが、エイヴァルトが王太子に剣を向けたのは事実だ。多くの騎士の目もある。除籍したのに関わりがあると思われては困るので、その足で屋敷へと戻ったら父が大激怒していた。
なんでもノートリア子爵に婚約相手の変更を伝えに行ったら断られたらしい。
「え? 鉱山に金がない?」
「調査ミスだと。うちから婿を迎えても返せるものがなく、話はなかったことにしたいと言われた」
「そんな馬鹿な! うちの技術者が間違いを犯すなんてありえません!」
「調査した場所にだけたまたま金があっただけで、さらに進めると二束三文にしかならない黄銅鉱しか出てこなかったと」
そんなことがあり得るのか?
ノートリア子爵はトリン侯爵家より有益な取引相手を見つけたのではとの疑念が浮かんだ。だがそれでは採掘技術はどうするのか。他の貴族がトリン侯爵家に勝る技術を持っているなんて聞いたことがない。
「では……せめてノートリア子爵家との縁談だけでも。たまたまなんてありえない。調査を続ければ必ず金は出ます」
トリン侯爵に並ぶには不足すぎるノートリア子爵家。その資金をあてにしなければならないほどトリン侯爵家は困窮しているのだ。
「総領娘がエイヴァルトに執心しているらしい。エイヴァルトとの婚姻以外は飲めないと」
「子爵のくせに……」
忌々しく吐き捨てたイーサンだったがはっとする。
「ノートリア子爵はエイヴァルトとの婚姻を望んでいるのですか?」
「そうだ。エイヴァルトの謀反は伝わっていなかった。考えたらとっくに連絡があっていいはずだが音沙汰なしだ」
「実は先ほど騎士団舎に寄ったのですが、何食わぬ顔をしたエイヴァルトが拘束されるでもなくいたのです。どういうことでしょう」
「エイヴァルトが殿下の首を狙ったというのは事実なのだろうな」
「もちろんです。この目で目撃したのです。私はラインスに呼ばれて……」
ここに来てまさかとの思いが沸き起こる。カーネスも同じなのだろう。「まさか嵌められたのではあるまいな」と、憎々しげにイーサンを睨みつけた。
「まさかそんな! 最悪そうだとしても殿下に刃を向けるなどあり得ません!」
「ではなぜエイヴァルトは捕縛すらされていない!」
否定したくても二人の中で答えは出ていた。ウィンスレット公爵家の者によって嵌められたのだ。しかも王太子も手を貸している。そうでなければエイヴァルトが捕縛もされずに自由にしている説明がつかなかった。




