46良きにはからえ!
大きく踏み込まれると同時に目前に迫った剣。ヒュンと音が鳴る。
その間ディアンを捕らえていたのは碧眼だ。
真っ直ぐにぶれることのない研ぎ澄まされた視線。
何が起きたのかを知ったのは、透き通った虫の羽が目前ではらりと舞った時。鋭い剣の刃が首元で煌めき、剣身には片羽を無くした羽虫が悶えていた。
「羽虫です」
この時ディアンは目前の男に見惚れている自分に気づく。
雑念を払拭し、今この時に集中して全神経を注ぐ姿からは強い意志を感じる。ただ美しい見た目だけではない、決意を秘めた感情。静かだが心の内では大きな炎を滾らせていた。
感じたのは恐怖なのか。それとも一瞬で与えられた極度の緊張のせいなのか。つぅっと冷たい汗が額から一筋流れた。
ディアンが止まっていた呼吸を再開すると同時に、エイヴァルトは大きく二歩下がり膝を突いて「ご処断を」と剣を差し出した。
「……なんのつもりだ」
ようやく言葉がでた。
羽虫ごときで王太子に剣を向けるなんてあり得ない。さらには訓練場の奥で物音がし、人が出て行く気配があった。閉じられた空間は人目を避けなければならないことがある証明だ。見られては困るもの。浮かれていたディアンはフリューレイからのヒントを見過ごしていた。
「すべて話せ。場合によっては冗談では済まさぬぞ」
ディアンは王太子、次の代の国王だ。対して剣を差し出すエイヴァルトは見た通りの存在。王の駒として国を守り、命を散らすのを当然とされる立場にある。
その騎士がディアンの首を狙ったのだ。手を貸してやるとは言ったものの、この状況はさすがに認めてやるわけにはいかない。
ばんっと音がして物置から人が飛び出した。「恐れながら申し上げます!」と転げるように突っ込んできて膝を突き損ない、這いつくばったのはラインスだ。
もう一人残っていたとは。
「逃げたのはトリン侯爵家の者か?」
主導権はディアンにあると分からせるために先に確認した。
「トリン侯爵家嫡男、イーサンにございます」
と言うことは、これはイーサンに目撃させるための小芝居だったようだ。なるほど、恐らくこれでエイヴァルトはトリン侯爵家から除籍の手続きが取られるだろう。
すでに事は起きてしまっているのでこれからでは間に合わない。トリン侯爵家が咎めを受けないためには、除籍の手続きが今回の件よりも先に終わっていたことにする必要がある。
イーサンは今すぐに過去の日付で書類を作成して、宰相の承認を示す印を偽装もしくは勝手に押印するのだろう。
にしてもやり過ぎだ。驚いたディアンがほんの少しでも動いていたら怪我をしていただろう。締め切られているため護衛からは見えないとしても、傷がついたら誤魔化しようがない。
「ラインス、お前は黙っていろ。まずはエイヴァルトからだ。己の言葉で話せ」
命令するとエイヴァルトは掲げていた剣を置いて深々と頭を下げた。
「事の始まりはとある女性が暴漢に襲われているところに出くわしたのがきっかけです」
「そこからなのか?」
「ご不満でしょうか?」
「まぁいい。お前の命もかかっているのだからな」
エイヴァルトがクラーラを助けたことは調べて知っているが、本人の口から直接聞けるなら確認のためにもいいだろうと自由に喋らせることにした。
それにしてもとある女性とは、ずいぶん慎重な物言いをするものだと思った。ディアンとしても異母弟妹の秘密を守りたいので文句はなかった。
しかし……。
「殴られたのか!?」
長くなると思われたエイヴァルトの話。早々に口を挟んだのはディアンであった。
「頬を殴られ口の中を切っておりました」
「他にはっ!?」
「引きずられようで至る所に擦り傷や打ち身が」
「なんてことだ……」
ディアンは慄いた。美しくも愛らしい我が妹がまさかそんな酷い目に遭わされていたなんて。報告では暴漢に襲われたが無事であったと聞いていただけにたいへんなショックを受ける。貴族の娘だったらショックで死んでいてもおかしくない状況だ。……と、ディアンは本気で思った。
「翌日は辛くて動くことができなかったようですが、見舞いに行くと大丈夫だと」
「大丈夫なわけがあるか!」
「同感です。私は健気に振る舞う彼女の姿に強く心を打たれました」
「殴られた顔はどうなったのだ」
綺麗に良くなったのは知っている。クラーラの顔には傷一つなかった。それでも大の男に殴られたのだ、どれほど恐ろしかっただろう、心配でならない。
「手当てのお陰か、幸いにも早々に腫れは引きました」
「そなたが手当てしたのか?」
エイヴァルトが頷いたので、ディアンは「そうか」と安堵の息を吐く。
そんな二人のやり取りを見ていたラインスは「わざとだな」と心の中で呟いた。
フリとはいえ相談もなく首を狙われて怒らないはずがない。そんなディアンの怒りを鎮めるために、エイヴァルトは敢えてクラーラとの出会いからを長々しく語りだしたのだ。
手段を選ばない男だ。クラーラを得るためになんでもやっている。計画を中止にしなかったのも次があるとは限らないからだ。
「すべてをお伝えし、殿下のお力をお借りしたく思っておりました。機を逃してはと焦るあまりこのような振る舞いを」
エイヴァルトは床に置いていた剣を取り、両手でディアンに差し出した。
「すでに覚悟はできております」
ディアンに向けられたエイヴァルトの瞳に恐れはない。話を聞いてクラーラへ思いを馳せていたディアンも、当初と比べて怒りは治まってきている。
ディアンは後ろに控えるフリューレイを振り返った。
「知っていたのだろう、なぜ報告しなかった」
別にエイヴァルトから聞かなくてもフリューレイが伝えればよかったことだ。始めに聞いていたら快諾した。
「演技であろうと殿下に刃を向ける行為は許せません。ならば命をかけるべきと判断致しました。エイヴァルトは騎士、運も生き残るためには必要です」
「それでも主たる私には報告するべきだろう?」
「もしそうしていたならこの計画は失敗するでしょう」
「なぜだ?」
「殿下は演技が下手そうですから」
「なっ!?」
「あの娘の力になれると浮かれて顔が緩んでしまう様が浮かびます。私は計画には反対でしたが、成功したなら殿下の望む未来が開ける……そう判断して、不本意ながら協力致しました」
そう言ってフリューレイは静かに膝を突いた。
いつもながらこの男は、肝心なことを何一つ言わない。憎たらしいが誰よりもディアンを思い動く男だ。常に付き従うためにウィンスレット侯爵家の継承は弟のラインスに譲って、自分は引退して後に余っている爵位のどれかを受けるつもりでいるのだ。
確かにフリューレイの示すとおり、計画を知っていたならクラーラのためだと張り切るだろう。舞台に立つ役者のような演技をしてしまうかもしれない。いいところを見せたいと自ら剣を持つのを望んで、エイヴァルトが振り下ろす剣を見事に受け止めたいと練習した。
そうしていたなら、ここへ立ち入った時に感じた緊迫感はなかっただろう。フリューレイは正しい。
そして今ここでエイヴァルトを罪に問うのは、クラーラを悲しませる原因になってしまう。
何よりもエイヴァルトは貴族の特権のすべてを放棄して、クラーラの生きる世界に落ちていくことに迷いがない。高位貴族に育ったくせに、手放すことをまったく恐れず、不安さえないのだ。
しかしだ。
「爵位は権力かつ特権だ。力を持つのは守るために必要だとは考えないのか?」
「それについては殿下がいてくださいます。私はともかく、もしもの時は殿下が彼女を守ってくださると信じております」
エイヴァルトは確信を持ってディアンを見上げる。あなたはクラーラの、アイザックの兄なのだと言われて、さらには期待されていることに喜びを感じてしまった。
これは致し方ない。悔しいが予期しない弟妹が現れて浮かれているのは事実なのだ。
「もういい、良きにはからえ」
ただしこれきりだ。次にやったら厳罰に処してやると心に誓う。
ディアンは踵を返して出口に向かったが、途中で不意に立ち止まって振り返る。大切なことを言い忘れていた。
「私が尽力したこと、娘には必ず伝えるように。よいか、必ずだぞ!」
こうなったら絶対に交流を持ってやる。笑顔で受け入れてもらう。
これこそそのための交流だと、ディアンは念のために同じ言葉を繰り返した。
「尽力したと、必ず伝えよ!」




