32除籍届
不本意とはいえエイヴァルトには婚約者がいる状態だ。まさか本人の了承を得ることなく強引に押し進めるとは思わなかった。あの家に生まれておきながらこの体たらく。完全にエイヴァルトの落ち度だ。
こんな不誠実な状態でクラーラに交際を申し込むわけにもいかない。けれど何もしないでいては他の誰かに横取りされる可能性もある。ラインスもクラーラに興味を持ったようだった。
永遠に隠されるとはいえ、クラーラが王族の血を引いているのに変わりない。
ウィンスレット公爵セバスティアンは、ラインスの正式な妻にとあっさり言ってのけた。セバスティアンにとってそれだけ尊い血であることが窺える。
平民と言ってのけるくせして息子に充てがう気満々だったし、クラーラが王太子の手から逃れた今もその考えが変わっているとは思えない。
セバスティアンは、クラーラの中にローディアスの血が流れていることを意識しないではいられないのだろう。なによりも手元において監視するのが手っ取り早い。エイヴァルトはそう感じていた。
だがそんなことはさせない。
ラインスだって、今さらクラーラの魅力に気づいてももう遅い。
絶対に譲らないとエイヴァルトは自身に誓った。
うかうかしていたら本当に横取りされてしまう。それだけは何があろうと阻止しなくては。
クラーラには一目で恋に落ちた。なぜ彼女だったのか。
初めは互いに見た目だったのは事実だが、クラーラに出会うまでは見目麗しい女性に付き纏われても心はぴくりとも動かなかったのに、どうして彼女のときは違ったのか。
あの日、エイヴァルトは何よりもクラーラの不思議な瞳に引き込まれたのだ。
ただそれだけならきっとこれほどのめり込まなかっただろう。これほどのめり込んだのは、クラーラがきっかけで自分の弱さに気づくことができ、トリン侯爵家の呪縛から解放されたからだ。
クラーラと出会う前のエイヴァルトは傲慢だった。無能なのは自分のせいなのに、不満のすべてを他人のせいにしていた。
トリン侯爵家で認められることだけに執着していた愚かさに気づくきっかけをくれたのはクラーラだった。すべてクラーラに出会えたおかげだ。
彼女は光だ。エイヴァルトにとっての唯一の女性だ。彼女のいない未来なんて考えられない。
「それなのに私は彼女を傷つけ続けているのか……」
そんな自分にがっかりする。だが引く気はない。
二人で生きる未来のためにどうすればいいのか知ってしまったのだから、絶対に掴み取ってみせる。
けれど婚約者がいるのに告白なんてもっての外だ。そんな不誠実をしては取り返しのつかないことになる。
それでもエイヴァルトがクラーラを想う気持ちは知ってもらいたい。そうしなければクラーラからあきらめられてしまう可能性が大きい。
嫌っているとの誤解も早急に解きたい。やらなければいけないことが山積みだ。
そんな折、長兄のイーサンが初めてエイヴァルトを訪ねて騎士団舎へとやって来た。
「お祖父様からの命令だ。国王陛下主催の夜会が五日後に開かれる。ノートリア子爵令嬢を伴い出席するように」
久し振りに顔を合わせるイーサンは挨拶もなく淡々と告げて招待状を差し出した。エイヴァルトは受け取る代わりに準備していた除籍届を取り出す。
「父上に渡してください」
「なんだ?」
受け取って中を改めたイーサンは眉間に皺を寄せて、「まったくお前は」と面倒くさそうに溜息を吐いた。
「なんの真似だ?」
「そこにある通りです」
「お前の意見などどうでもいい。役目を果たせ」
馬鹿馬鹿しいと突き返されたが、むりやりイーサンの内ポケットに突っ込んでやった。イーサンはエイヴァルトの行動に驚いたようで目を丸くしている。
「父上の決定に背いたと聞いたが事実だったようだな。いったいどうしたのだ?」
「どうしたもこうしたもありません。私にはこれ以上トリン侯爵家に身を置く理由がないのです」
「ノートリア子爵家に入り、トリン侯爵家に益をもたらすのがお前の役目だ。家のために尽くせ」
「それならあなたの息子にやらせてはいかがですか。ノートリア子爵家の末娘なら年齢も合います」
「私の息子はトリン侯爵家を継ぐ直系だぞ、馬鹿を抜かすな!」
予想した通りに怒号が飛ぶが、これまでのように怖くも情けなくも感じなかった。
怒鳴られるたびに失敗したと萎縮していたのはいったいどうしてなのか。既に思い出せないほど、エイヴァルトは解放された現状に染まっていた。
「これ以上トリン侯爵家に恥をかかせるな」
エイヴァルトの存在そのものが恥とされた。言われるたびに苦しかったのに、今は何も感じない。
「とにかくノートリア子爵令嬢を伴い出席しろ。いいな」
それだけ言うとイーサンは踵を返して去って行った。運の良いことに招待状は受け取らずにすむ。恐らくエイヴァルトの態度が信じられず動揺していたのだろう。
その後イーサンは仕事部屋に戻ると、エイヴァルトに押し込まれた除籍届を懐が取り出して眺めた。
相変わらず役立たずの馬鹿だと思いつつ、忌々しく感じて書類を握り潰しゴミ箱に投げ捨てた。
それを見ていたラインスが後からこっそり拾って皺を伸ばす姿は、誰に見られることもなかった。




