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30婚約者



 遠くで名前を呼ばれている。この声は誰だろうか。必死なように聞こえるけれども、聴くと嬉しくて、悪い感じなんてしない低い声。どちらかと言えば大好きで、ずっと聴いていたいし呼んで欲しい。


「……クラーラ、聞こえるかいクラーラ」

「あれ? エイヴァルト様……?」


 気づいたら美麗な顔がすぐそばに。夢なら覚めないで欲しい。


「大丈夫か? ぼんやりして焦点が定まっていなかった。頭でも打ったのだろうか」


 碧い瞳に見つめられていた。心配そうに眉を下げて、けれどもその瞳は何一つ見落とさないとばかりにクラーラを探っている。ああ、なんて美しいのだろう。


「クラーラ、大丈夫?」


 フランツも心配してくれているようだが……半笑いだ。お陰でちょっとだけ現実が見えた。

 いや、見えてしまって鼓動が異常に速くなる。


「だ……大丈夫。エイヴァルト様の攻撃力が凄すぎて……」

「うん? 攻撃力?」


 フランツに返事をしたつもりだったのに、エイヴァルトが反応して首を傾げた。


「隊ちょ~。隊長の色気にやられたんですよ。クラーラが来たくらいでどうしたんですか?」

「どうもしない、私は普通だ」

「は? 隊長の満面の笑顔なんて俺でも初めてみたっすよ。午前中は城に呼ばれてたみたいですけど、そこでなんかいいことあったんですか?」


 フランツの言葉からすると、今日のエイヴァルトはおかしいらしい。やはりそうか。こんなにも妖艶で色気だだ漏れで美しい。いつもの何倍も美しくて艶やかな姿は万人を堕落させかねない。

 初めて出会った時にこうだったら、クラーラは間違いなく気絶している。よしよし、これは自分のせいじゃない。無様な姿を晒してしまったけれど、周囲は当然のことだと理解してくれるだろう。


「いいことというか……。そう、クラーラ。君に大切な話があるんだ」

「わたしにですか?」


 そこでクラーラはふと気づく。半裸のエイヴァルトに抱っこされている状況であることに。

 エイヴァルトの膝の上に乗せられて、逞しい二本の腕で大切に囲ってくれていて、更には生まる出しの胸板が目前に……。

 再び頭に血がのぼってまたもや「きゅうっ」と変な音を出して意識を失いそうになったその時。

「エイヴァルト様っ!!」と、悲鳴に似た声がして年若い女性が突進してきた。


 その女性は「わたしのエイヴァルト様になにをしているの!?」と叫ぶと、クラーラをエイヴァルトの膝から引きずり下ろそうとした。しかしエイヴァルトはクラーラを抱いたまますっと立ち上がって女性から距離をとった。


「あなたは確かノートリア子爵令嬢でしたね。ところで、わたしの(・・・・)とはいったいどういう意味でしょうか」


 周囲を凍りつかせるような冷たい声が麗しいエイヴァルトから発せられる。その声はノートリア子爵令嬢と呼ばれた、突進してきた女性に向けたものだが、あまりの怖さのお陰でクラーラの動悸が治まった。


 それでも恥ずかしくてエイヴァルトの剥き出しの肌に触れることができない。クラーラがフランツに視線で助けを求めると、理解してエイヴァルトの腕から抜き取ってくれた。

 エイヴァルトも抵抗せずにクラーラを離すと、女性から庇うかのようにして背中に隠してくれる。


「言葉のとおりです。だってわたしはエイヴァルト様の婚約者ですもの!」

「意味が分かりません。あなたとの縁はきっぱりお断りしたはずですが?」

「でもっ、婚約が整いました。わたしはエイヴァルト様と結婚します!」


 堂々と大声で告げたご令嬢と、凍てつく視線を向けたままのエイヴァルト。どこからどう見ても婚約者同士ではなく、思い込みの激しい女性が一方的に熱を上げているだけのように見えた。


「私には愛する人がいると伝えたはずです。それに私はあなたの名前すら知らない」

「リーリアですわ! それに愛人は許容いたします!」

「ノートリア子爵令嬢、もう一度はっきりと申し上げる。私はあなたと結婚しない」

「わたしたちの結婚は政略です。すでに整っているのに我儘は許されませんわ!」


 どうやらエイヴァルトはこのご令嬢との婚約や結婚はお断りしたらしい。けれども彼の知らないところで話は進められていたようだ。


 クラーラの全身からすうっと血の気が引いた。血が上ったり引いたりで頭がふらふらしている。

 彼女の言うように貴族の結婚は個人の意思よりも家の意向が優先される。そんなこと分かっている。でも今、クラーラの目の前でこんなやりとりがされなくてもいいではないか。

 なんて日だろう。今日だけでなく、近頃はちっともいいことがない。


 クラーラではどんなに望んでもエイヴァルトの隣に立てないのに、この女性は貴族に生まれたというだけでエイヴァルトと生涯を共にできるのだ。分かっているけど悔しい。

 そして何よりもクラーラの胸を抉ったのは、「愛する人がいる」とのエイヴァルトの言葉だった。

 宣言する姿は勇ましさすら感じた。

 エイヴァルトに愛される誰かがいる……。

 突きつけられた現実にクラーラは衝撃を受けた。胸に刺さった矢が抜けなくてだらだらと血が流れている気分だった。


 どうしてだろう、望めないと分かっていたのに嫉妬して、胸を痛めているなんて。恋を楽しみたいなんて思っていた呑気な我が身が滑稽すぎて救いようがない。


 妻子ある男の子供を産んだ母もこんな気持ちだったのだろうか。

 すべてを納得して父親のない子を、愛する人の子供を産んで育てる決断をしたのだろうか。子供に父親の名前すら教えることを許さない、非道とすら思える相手なのに、母はその男を愛してしまったのか。


 もし今、あり得ないけれど、もしもが起きてエイヴァルトに望まれたなら。きっとクラーラは母親と同じ道を選んでしまう。望まれない今に絶望すら覚えている現状で、その道を選ばないことなんて無理だ。


 ノートリア子爵令嬢は、自分たちは婚約している、わたしは結婚するのだと捲し立てている。エイヴァルトから厳しい視線を向けられても怯まない。それは貴族社会における絶対的な結びつきがあることを理解しているからだろう。


「酷いわ、婚約を破棄するなんて。わたしを傷物にしないで!」

「婚約が事実だとするならそれは偽装だ。なぜなら私は了承も署名もしていない。たとえ当主の意向が最優先だとしても、成人した私自身が署名しなくてはならないはずだ」

「そんなことは知りませんわ。わたしとエイヴァルト様が婚約した事実があるだけです!」


 貴族の婚約や婚姻は国で管理されている。エイヴァルトの言うように当主の意向が最優先されるが、国に提出する婚約の書類には、対象が成人済なら自署による署名が必要だった。

 その場で断ったエイヴァルトが署名するなんてあり得ないのだが、そんなことは知らないクラーラは二人が婚約している事実だけを受け止めるしかない。


「フランツさん、わたしそろそろ帰るね」


 近い将来結び付くであろう二人をこのまま見ているなんてできなかった。もしそうならなかったとしても、エイヴァルトには人前で恥じることなく宣言できるほどに愛している人がいる。こんなの拷問だ。


「そうだね。このご令嬢とやらはしつこそうだし」


 大切な話があると言われたけれど聞きたくなかった。きっと愛する人がいるから近寄らないで欲しい的なことを優しく言われてしまうに違いない。

 エイヴァルトに笑顔を向けられて逆上せていた我が身が恥ずかしい。浮かれていられる身分じゃないのに……。


 クラーラはフランツに騎士団舎の門まで送ってもらう。一度振り返るとノートリア子爵令嬢がエイヴァルトに抱きつこうとして避けられていた。拒絶されて冷たい目を向けられてもめげない彼女はよほどの自信があるのだ。羨ましい。


「あのさ、クラーラ」

「うん?」


 別れ際、フランツは言い難そうに頭を掻いて視線を逸らしつつも慰めるように告げた。


「あのご令嬢のことだけどさ。エイヴァルト隊長は本気で迷惑がってるから」

「それは見たら分かるわ」

「ならいいんだけど」

「エイヴァルト様の愛する人って誰なんだろう。わたしなんて嫌われているのに……」

「え?」


 フランツが笑い損なったような変な顔をして首を傾げた。


「それじゃあね、今日はありがとう!」


 落ち込んで嫉妬している気持ちを隠すかのように、クラーラは元気に手を降って踵を返す。「クラーラ!」と呼び止められたが、聞こえないふりをして走った。


 その後はもう一度工房に戻って仕事に励んだ。延々と根気よく細かな細工に没頭していると嫌なことなんて忘れられる。


 帰宅時間を過ぎても構わず続けていたらアイザックが迎えに来た。仕事で遅くなるなら連絡する、それ以外は暗くなる前に戻るとの約束を破ったのに何も言われなくて、作業が一段落するまで側にいて見守ってくれていた。




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