29騎士団舎でのこと
王太子の悪癖で片付けられた顛末。でもあの人の目は力のない平民を弄んで楽しんでいるものではなかった。
ウィンスレット公爵家の人だと名乗った青年とアイザックは顔見知りらしく、アイザックが彼を頼った結果がこれなのだとクラーラにも理解できた。
けれど納得はできていない。
本当にもう大丈夫なのだろうか。ディアンは自分は王太子だと言ったが、そんな人よりも公爵は偉いのか。もしかしたら王太子というのは嘘なのかもしれない。嘘ならきっと公爵の方が身分は上だろうから、二度とこんな目に遭わないと安心できる気がする。
クラーラはディアンを知っているであろう青年……ディアンと出会うきっかけともなった店で、結婚式後の宴を開いたフランツを訪ねることにした。
ディアンはあの店の主がする話が好きだと言っていた。ならばフランツとも顔見知りかもしれない。
午後から仕事をお休みして、「何かあった時以外は来るな」と言うアイザックとの約束を破り、お城の側にある騎士団を訪ねる。
アイザックが騎士団舎にいるのは朝と夕だけだと聞いている。それ以外は外に出ているらしいので見つかることはないだろう。フランツはアイザックとは別の隊になる。どのような内容の仕事に携わっているか分からないので不在の可能性もあった。けれど運がいいことに受付する前にフランツから声をかけられた。
「あれ、クラーラじゃないか。ここでは初めて会うね。どうかした?」
「よかった、フランツさんに会いたかったの!」
「えっ、俺!?」
フランツが辺りをきょろきょろと窺う。周りには騎士がちらほらいて、部外者のクラーラに視線を向けていた。
「アイザックやエイヴァルト隊長じゃなくて俺なの?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「そうかー。うん、分かった。ここだと目立つからこっちにおいで」
連れて行かれたのは訓練場の一角で、昼時のせいか誰もいない。クラーラはベンチを勧められてフランツと隣り合って腰を下ろした。
「で、どうしたの?」
「フランツさんの結婚式の日のことなんだけど、式の後に行ったお店で会った人のことが知りたくて」
「えっ!? 隊長以外に気に入った騎士でもいた?」
「そうじゃなくて」
「そう? なら良かったけど」
エイヴァルトの名前を出されて調子が狂う。クラーラが周囲に視線を向けると、つい今しがたまで誰もいなかったのに、ちらほらとこちらを窺う騎士の姿が目に入った。
見られているのが分かる。ディアンとの一件もあり、どうにもならないけどこの顔が嫌いになりそうだ。
「大丈夫、あいつらまでには聞こえないから」
先を促されてクラーラは「あの……」とフランツを見上げた。誤魔化されないようにしっかりと見つめる。
「あの日、お忍びで高貴な人が来たのを覚えてる?」
「高貴な人?」
「金色の髪に緑色の瞳の、フランツさんに何かを渡してた」
「あー、うん。分かった。クラーラはあの方が誰なのか知ってるんだ?」
しっかりと頷くと、「なにか困ったことになってる?」と聞かれる。
「なってたけど、解決したっぽい。でもなんだかしっくりこないというか……。ねぇ、あの人って本当に王太子様なの?」
「それはね、口にしちゃいけない」
内緒だとフランツが人差し指を口元に当てた。
「俺もね、店でたまにみかける程度だったんだ。あの方は店主と会話を楽しんでいたし、身分を隠してるのは分かったから、わざわざ話しかけて邪魔するのも悪いしね。あの日、ボタンを頂戴するまでそれほどのお方だってのは知らなかった」
「ボタンを貰ったの?」
「そう。目にかけてるって印にもなる」
フランツは制服の前を寛げると、胸元に手を突っ込んで紐が付いた小袋を取り出して見せてくれる。袋の中には紋章付きの金のボタンが入っていた。
「もし悪さをして投獄されたとしても、見せるだけで釈放される」
「まさか。悪いことをしたのに釈放だなんて」
「それくらいの力がある品だ。紛失でもしたら大変だし、万一に備えてこうして肌身はなさず持ってる」
この金のボタンにそんな力があるだなんて。フランツはとても嬉しそうにしているので頂戴できるのはとても光栄なことなのだろう。そしてやはりディアンと名乗ったあの方は王太子で間違いない。
「良い出会いがあった、その礼だって言われて。なんのことかと思ったけど、やっぱりクラーラのことだったのかぁ。あの時一緒にいたもんな。見初められたってことだよね? 解決したっぽいってどういうこと?」
悪癖のことは秘密にするように言われているし、本物の王太子だと判明した今となっては、迂闊なことを口走って大変な目に遭うのも避けたい。そもそも悪癖は事実じゃないと思っている。クラーラは「うん、ちょっとね」と言葉を濁した。
「ねぇフランツさん。公爵様ってのはあの方よりも偉いの?」
「そんなことないんじゃない?」
「そうよね。絶対にないわよね」
「あ、でも。ウィンスレット公爵って分かる? 宰相してる人だけど」
「それなら知ってるわ」
つい今朝になって知ったのだが、もともと知っていた風を装った。
「えらいとかどうとか抜きにして、宰相閣下ならあの方に意見できるかも」
「そうなの、どうしてかしら?」
「前の公爵の話だけど。あの方を育てたのがその公爵だって聞いた」
「へぇ、そうなんだ」
王太子は幼少期に父親を亡くしている。母親は随分昔にお城を出ていることも有名だ。庶民で高貴なことにまったく関係ないクラーラでさえ知っている王家の事情。なるほど、ディアンは前の公爵様に育ててもらったのか。だから現在の公爵様……ラインスの父親の言うことを聞くのかと納得がいった。
「隊長なら詳しく知ってると思うよ。侯爵家の出身だからね。一緒に聞いてみようか?」
「ううん、大丈夫。必要ないわ」
「そう? じゃあさ、今ちょうど訓練してるから見学していきなよ」
「そんな邪魔できないわ」
「邪魔じゃないって。騎士の訓練を見学する若い女性はけっこういるんだ。今日だって大勢きてるよ」
ただでさえ嫌われているのに、仕事の邪魔をして嫌われたくない。なのにフランツは「遠慮しないで」とクラーラの手を引いて歩きだしてしまった。
大きな建物の裏にはまた別の訓練場があった。そこでは幾人かの騎士が訓練していて、訓練場の周囲は若い女性たちで賑わっている。まるで訓練を見世物にしているようだ。これって邪魔ではないのだろうか。
模擬剣を振るい訓練に勤しむ集団は、周囲の視線なんてお構いなしに真面目に訓練しているようだった。その中にエイヴァルトの姿を見つけたクラーラの胸が強く鼓動を打つ。
彼は騎士たちの中心で剣を振るっていた。剣が交わると大きな音がして、受けたエイヴァルトは相手を弾き飛ばす。相手は一人ではなく次々に襲い来るが、怯まず余裕で、まるで流れるように剣をさばいていた。
周囲の女性たちから「エイヴァルト様!」と黄色い悲鳴が上がっている。クラーラはと言えば、声をなくすだけでなく、息をするのも忘れて釘づけにされた。
エイヴァルトが身をひるがえすたびに金色の髪が揺れて汗が舞う。その様はとても美しくて天女のようだ。
どのくらい見惚れていただろうか。恐らくさほど時間はたっていないが、クラーラは自分が今どこにいるのかすら忘れていた。
騎士たちは訓練を終えたのか、互いに声を掛け合いながら訓練場の中心を離れる。全身汗びっしょりで、シャツを脱いで滴る汗を拭う。
「隊長~!」
隣でフランツが大きな声を出したが、クラーラの耳には届かなかった。ただただエイヴァルトの姿に見惚れているばかりで、他のすべての物や人や音の存在は感じられない。
フランツに呼ばれたエイヴァルトが振り返る。彼の金色の髪は汗に濡れてしっとりとして感情のない碧い瞳がこちらに向いた……かと思うと大きく見開かれた後に弧を描き、「クラーラ!」とその薄い唇からは明るい声が上がった。
「え?」
満面ともいえる笑みを浮かべたエイヴァルトが、クラーラの名を呼びながら駆けてくる。いつのも彼は感情を表に出す人ではなく、笑っているようでいてもどことなくよそよそしさを感じさせていた。温かく見守るような視線を向けてくれたとしても、困ったように眉を寄せることもあった。
けれど今はどうしたことか。
笑っている。それもきっと心から。
エイヴァルトのそんな姿は初めてだった。
「クラーラ、来てくれたのか。嬉しいよ」
「え?」
いや、エイヴァルトに会いに来たのではない。フランツに用があって来たのだ。けれど今目の前に立つエイヴァルトに対してそんな思考はどこかへ吹っ飛んでしまっていた。
なにしろクラーラは、生まれて初めて色気というものがこの世に存在するのを知ったのである。
運動による発汗でほんのりと色づく肌。伝う汗。するりと流れる雫ひとつとっても妖艶だ。エイヴァルトが目の前に立った途端、色香にやられたクラーラはポンっと音を立てて全身を朱色に染めた。
アイザックと暮らしているのだから男の人の裸なんて見慣れている。アイザックは張りぼてにボンボンボーンと、粘土で作ったような大きな筋肉が張り付いていた。着衣のエイヴァルトは細身に見えるが、クラーラを軽々と抱っこできるくらいだから同じようなものだろうと、それが当たり前の常識だと思っていたのだ。
けれど衣服を脱いで上半身をさらしているエイヴァルトは、アイザックとはまるで異なる体をしていた。
まずアイザックよりもかなり細身だ。それでいて美しい筋肉がついていた。
胸板は当然厚いが、無駄にゴツゴツボンボンとくっついているのではなくて形よく治まっている。肩も盛り上がっているが不格好に大きすぎない。お腹は八つに分かれて腱画がはっきりしている。腹部の側面から斜めに走る筋肉も出っ張っているではなく、しっかりと側面を守るように張り付いていた。
全体的に細身。けれどもしっかりと鍛えられてアイザックの筋肉達磨とは違う。なによりもまず、美しいという表現がぴったりな肉体をもっていた。
クラーラはそんなエイヴァルトの肉体を目の当たりにして言葉を失ってしまう。
なにしろ裸。裸なのだ。
アイザックで見慣れているはずなのに、目の前にあるそれは強烈に男を意識させるものだった。
男性の裸を見てしまうなんて……。
それに「クラーラ?」と、女神もかくやと言わんばかりの美貌の男性が至近距離で問いかけている。
「どうした、顔が赤いようだが?」
様子がおかしいと気づいたのだろう。エイヴァルトから笑顔が消えて心配そうに顔を覗かれてしまうともう駄目だった。
クラーラは「きゅうっっ」と、変な音を出して後ろに倒れ込む。そこで「危ない!」とエイヴァルトが正面から腕を回してクラーラが倒れるのを助けてくれた。そのせいでクラーラはエイヴァルトのむき出しになった胸に抱き込まれてしまい頭が真っ白になった。




