15決別
フランツが結婚した翌日。エイヴァルトは父親から呼び出しを受けていた。
予定の時刻になってトリン侯爵家を訪れると、家令に指示されて侯爵家の人間に相応しい出で立ちに着替えさせられる。そうして向かわされた客室には両親を含めて五人の男女がいた。
その顔ぶれに見合いだと気づいたがエイヴァルトに拒否権はない。
父のカーネスと母のマリアーヌに帰省の挨拶をすることなく、ノートリア子爵家の当主と妻、そして十七になる総領娘を紹介される。
あどけなさを残した娘はエイヴァルトを一目見ただけで頬を染めて、恥ずかしそうに俯きながらも、ちらちらと盗み見ている。よくあることなので気にならないが、ノートリア子爵は挨拶も早々に「すでに娘はご子息に夢中のようです」と嬉しそうにしていた。
ノートリア子爵家には娘ばかりが五人。長子の伴侶としてエイヴァルトを望んているらしい。三人そろってここにいるということは、トリン侯爵家においてエイヴァルトがノートリア子爵家に婿入りするのは決定しているのだ。
いつかこの日がくることは予想していたが、なんの知らせもないままとは思いもしなかった。
仕事を理由に社交からも退いていたこともあって、目の前の令嬢とは初対面。彼女がどういう女性なのかすら知らない。
楽しそうに話す両親とノートリア子爵夫妻。エイヴァルトは挨拶以外に口を開かず、ただ黙って座っているだけの人形だ。
トリン侯爵家に生まれたのだから、侯爵家にとって有利な結婚をするのはエイヴァルトの義務である。そんなことはずっと前から分かっていたし、嫌だとも思わなかった。
貴族の結婚なんてこんなものだと思いながら、話を振られたら口角だけあげて静かに頷く。
内容からすると最近になってノートリア子爵領から金の大きな鉱山が発見されたらしい。ただ岩盤が硬く採掘に相応の技術が必要で、トリン侯爵家は採掘技術を提供することになっているようだ。
なるほど。エイヴァルトが子爵家の婿養子となれば子爵家からの資金が回ってくるということか。
トリン侯爵家は王族の近くで仕事をしているが、さらに力を得るために多くの資金を必要としているのだろう。ノートリア子爵は田舎貴族で、これを機に中央で力を振るおうと目論み、それをトリン侯爵家が後押しをすることになっているようだった。
まぁよくある話だなと人ごとのように思い、邪魔をしないように当たり障りのない態度で座っていたエイヴァルトだったが。
「エイヴァルト様は何がお好きですか?」と令嬢に話しかけられた。
本来ならエイヴァルトから声をかけるべきなのだがしびれを切らしたのだろう。令嬢の期待を込めた眼差しがエイヴァルトに絡みついている。
「私は特に。あなたは?」
何が好きかなんて漠然と聞かれても思い浮かばない。何とはなんだ? と考えつつ問い返した。
「わたくしはエイヴァルト様のお好きなものならなんでも好きです」
恥ずかしそうに答えた令嬢の様に、エイヴァルトはぞっとした。
なんてことだろう。この令嬢はエイヴァルトに魅了されるあまり自我さえも失っているようだ。エイヴァルトの好みすら知らないのにそれが好きだと言う。
では何か。腐った果実が好きだと言えばこの令嬢はそれを食べるのか? 人を切るのが好きだと言えば、素晴らしい趣味だと同意するのか? クラーラのことを愛していると言えば、彼女もクラーラを愛しているというのか?
妻が夫に従うのは当然のことだ。エイヴァルトの母だって決して父に逆らわない。それが当たり前だ。
けれどそうだとしても、エイヴァルトは目の前の令嬢にぞっとして絶望した。
貴族の令嬢として顔合わせの席での正解だとしても、今のエイヴァルトにはまるで理解できないことだった。
きっと数か月前の、クラーラに出会う前のエイヴァルトであったなら絶望なんてしなかった。トリン侯爵家の思惑を察して素直に従えただろう。けれどエイヴァルトはクラーラに出会ってしまったのだ。
クラーラは自分の好きなものを好きだと言ってくれる。何かを与えると一緒に分け合いたいと願い、そうしようと提案してくれる。受けた恩には自ら動いて感謝を表してくれる。嘘偽りのない素直な気持ちを込めた瞳でエイヴァルトを見つめてくれる。さらには恥ずべき行為に気づかせてくれた。あれほど固執していた「トリン侯爵家に相応しい立場」というものがどうでもいいことになっていた。
これは全てエイヴァルトがクラーラに出会えたことで経験して知り、悔い改めたことだ。
エイヴァルトだって初めは一目惚れだった。たった一目見ただけでクラーラの瞳に惹きつけられて恋をしたのだ。
けれど今は愛しているのだと気づかされた。
それは見た目ではなく、クラーラの持つ魅力に惹かれたのだ。
生まれも育ちも異なる間柄なのに、平民だからとか蔑む気持ちは生まれない。一緒にいて幸せになれる存在だ。
それを知ってしまったのに、今さらこの世界で生きていけるのか?
結婚は個人の自由ではなく義務で仕事だ。特別な女がいるなら外で会えばいい。それが誠実ではないなんてそれこそ平民の考えであって、貴族社会では当たり前だ。父や兄たちにさえ外に女がいて、母は承知しているが何も言わない。
ノートリア子爵令嬢と結婚して婿に入れば、いずれエイヴァルトはノートリア子爵だ。金の鉱山もエイヴァルトのもの。それを使ってトリン侯爵家を発展させるのがエイヴァルトの役目。
トリン侯爵家がこの結婚を進めているということは、エイヴァルトに騎士を辞めろと言っているに等しい。出世を平民出身の騎士に越された時点で、エイヴァルトは騎士としても失格の烙印を押されたのだ。
エイヴァルトの将来はノートリア子爵家に入り、目の前で頬を染めている女性の夫になること。
これがいつまで続くのか。
何日、何年、何十年と。それこそ死ぬまでだ。この女性と一生添い遂げるというのか?
この先の未来を予想したエイヴァルトは、絶望すると同時に口を開いていた。
「私は結婚いたしません」
両親とノートリア子爵家の面々が談笑する中に、エイヴァルトの低くもしっかりとした声が通った。
「え、今なんとおっしゃいましたか?」
聞き間違えたようだと、ノートリア子爵が笑顔でエイヴァルトに問い返す。
エイヴァルトは立ち上がって席から離れると、ノートリア子爵ではなく、隣に座っていた父へと体を向けて見下ろした。
「私は結婚いたしません」
父カーネスがエイヴァルトと同じ色の瞳で冷たく睨みつける。その瞳をずっと恐ろしいと感じていたはずなのに、この時は何も感じなかった。
「ノートリア子爵家には五人の娘がいる。このご令嬢が気に入らないのなら、残りの四人から選べばいい」
「そんなっ。わたしはエイヴァルト様を愛しています!」
カーネスの心ない言葉にご令嬢が反発するが、隣に座るノートリア夫妻に窘められている。そしてノートリア子爵は「次女は今年で成人です。愛らしく聡明でエイヴァルト殿もお気に召すでしょう」と、さも当然とばかりにここにいない娘を薦めてきた。
「ノートリア子爵、無礼をお許しください。ご令嬢が悪いのではない。私には愛する人がいるのです」
「愛人の一人や二人……いや、三人や四人いても構いません。それだけの御尊顔ならば当然です」
「私は愛する女性を日陰者にするつもりはありません」
金鉱という切り札を持っているのだから、他にもやりようがあるだろうに。なのにノートリア子爵はどうしてもトリン侯爵家と繋がりを持ちたいらしい。
トリン侯爵家にはエイヴァルト以外に独身の男はいない。逃してはならないと、結婚すらまだなのに当主自ら愛人を認める発言をし、隣に座る娘は両手で顔を覆って泣き出してしまった。
その鳴き声を聞いて煩いとばかりに顔をしかめたカーネスは、「どこのご令嬢だ?」と吐き捨てる。
「貴族ではありません。平民の娘です」
「馬鹿なことを。許すわけがないだろう」
「許していただかなくて結構です」
「なんだと!」
初めて見せるエイヴァルトの反抗にカーネスが声を荒らげた。
「貴様、トリン侯爵家の人間としての誇りはないのか!」
激高するカーネスに胸倉を掴まれるが、エイヴァルトは何食わぬ顔で受け止めた。
「面汚しめ。縁を切られたくなければ言うとおりにしろ!」
「では除籍してください。今まで世話になりました。失礼いたします」
父の手を払いのけたエイヴァルトは、幼い頃から恐ろしくて緊張ばかりして過ごした思い出しかない屋敷を後にする。
門を抜けた時、どういうわけだか心がとても軽く感じた。




