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12立場の壁


 庶民の家に招待されるなんて初めてのことだ。騎士になってからも貴族出身のエイヴァルトは、同僚と家族ぐるみの交流を持ったことがなかった。

 招待されるとしても貴族位の上官の屋敷。言い方は悪いが、庶民の一般的な家庭がどういうものかなんて職務上知り得たことがすべてで、きちんと理解できていない。


 フランツの助言を受けて、彼らが好む種類の酒を持参した。クラーラが嗜むか分からなかったので焼き菓子も。フランツは結婚予定の彼女がパンを焼いてくれるとかで遅れて来る予定だ。


 この食事会はクラーラを助けた礼らしい。彼女が無事に過ごしてくれるだけでそんなもの必要ないのに、久し振りに会えるとなってエイヴァルトの心は浮き立っていた。

 けれど喜んでばかりはいられない。何しろ最大の任務である、クラーラを貶すことをしなくてはならないから。

 クラーラに嫌われるために、彼女から向けられる好意を断ち切らせるために、エイヴァルトはクラーラ自らが作ってくれる料理を「不味い、こんなもの食えるか」とこき下ろさなくてはいけないのだ。


 きっと悲しむだろう。不誠実な態度に幻滅してコップの水をかけられるかもしれない。

 けれどそれで正解なのだと、エイヴァルトは覚悟を決めて二人の住まいを訪問した。


 集合住宅の二階にある扉を叩くと、間髪入れずに「いらっしゃいませ!」と笑顔のクラーラが飛び出した。扉の前で待ち構えていた勢いに、考えていたことがすっかり飛んでしまう。


「招待いただき感謝する。これを」

「ありがとうございます。お酒と、とてもいい匂いがする。もしかしてこれは……」

「アップルパイだ。口に合えばいいのだが」

「大好きです!」


 満面の笑みを向けられて、この「大好き」が自分に向けられたと錯覚したエイヴァルトは、衝撃のあまり言葉をなくした。


「アップルパイが好きだって知っていてくれたんですね。嬉しい!」


 はしゃぐクラーラに見惚れていたら、「入り口で騒ぐな。客人を招かなくていいのか?」と、クラーラの背後に大きな男が現れる。アイザックだ。

 クラーラははっとして、恥ずかしそうに頬を染めて「どうぞ」とエイヴァルトを招き入れた。


「こちらでお待ちください」


 いつもは下ろされている茶色の髪は纏められている。後れ毛が垂れて色香を誘った。

 勧められるままダイニングに座って、キッチンに立つ二人を見つめた。

 背中を向ける二人は同じエプロンをつけていた。ニンニクの焦げる香りが食欲を唆る。仲のよい雰囲気を目の当たりにして羨ましく、どうしてだか世界にたった一人で取り残されたような寂しさを覚えた。


 黙って二人の様子を窺っていると、「お待たせ!」とフランツが家主の出迎えも受けずに勝手に入ってきた。手にした紙袋からは焼き立てのパンの匂いが。

 フランツの登場で食事会が始まる。

 メインは鶏肉と豚肉と牛肉のソテー。鶏肉には柑橘ソース、豚肉には甘めの、そして牛肉は塩と胡椒にニンニクがたっぷりの味付け。色とりどりのサラダに豆のスープ。焼き立てのパン。エイヴァルトが持参した酒も注がれる。


「改めて。先日は助けてくださってありがとうございました。遅くなりましたが、わたしと兄のアイザックからのお礼です」

「いや、私は……」


 ここで自分の使命をようやく思い出したエイヴァルトは否定しようとした。けれどアイザックが「俺からも改めて礼を言う。妹を助けてくれて感謝している」とエイヴァルトの台詞に被せた。

 予定と違ったが、彼の紫の視線はこれでいいのだと語っている。やはり大切な妹を傷つけたくないのだろう。

 それはエイヴァルトが生まれた場所では存在しなかった思いやりという感情だが、家を出て騎士団の仲間と接するうちに、そういうものがあることを学んだ。

 エイヴァルトは今この場でクラーラを傷つけずに済んでほっとしたものの、都合のいい展開に喜んでしまう狡さに瞳を陰らせる。


「それからフランツさん、結婚おめでとう。式に出席するのが楽しみだわ!」

「ありがと。あ、隊長も出席してくださいね。クラーラの隣の席を準備してますから」


 人の気も知らないでフランツがとんでもないことをさらりと言ってくれる。なんと返したらいいのか分からないエイヴァルトと、焦って「フランツ!?」と声を上げたアイザック。クラーラは恥ずかしそうにしながらも「ありがとう」と静かに礼を告げた。



 楽しい食事会を終えて、クラーラは二階の窓からエイヴァルトとフランツに手を降り最後まで見送った。

 二人の背中が闇に消えて見えなくなった途端、笑顔が消える。

 

「また会えるかな……」


 久し振りに会えたエイヴァルトはやつれていて、とても疲れているようだった。アイザックの言葉通り仕事が忙しいのだろう。

 それが原因で会えなかったのだと思いたいが、アイザックがクラーラを案じてエイヴァルトに何か言ったのも会えなかった理由の一つだと感じている。

 きっと勘違いさせるなとかなんとか言って、言われたエイヴァルトは了承したのだろう。

 心が近づいてきたのかな? なんて浮かれていたが、エイヴァルトにとってクラーラはその程度の存在なのだ。


 今日を限りに関係が終わるかもしれない。だからメイン料理の味付けは学んだ三種類全てを作った。

 アイザックから「なんで三種類なんだ?」と聞かれたので、「今日が最初で最後かもしれないから」と答えた。アイザックは息を呑んで言葉を失っていたが、そろそろエイヴァルトが来る頃だろうと窓から様子を窺うと、ちょうどよく姿が見えたので扉の前で待ち構えた。


「わたしとエイヴァルト様の間には大きな壁があるのだから仕方がないのよ」


 貴族と庶民の間にはとても大きな壁がある。クラーラがエイヴァルトの世界に入り込むことはできない。


「分かってたけど、やっぱり辛いなぁ……」


 身分のことは理解してる、それでも恋を楽しみたかったのはクラーラ自身だ。辛くても苦しくても寂しくても全部が自分の選択。ちゃんと弁えているけれど、本当に好きだから胸が苦しい。

 仕事場で「美男美女でお似合い」と言われて嬉しかったのは初めだけだった。時が経つにつれて上辺だけの言葉に思えた。


 確かに初めは顔に見とれたけれど、それだけじゃない。助けてくれたこと、心配してくれたこと。傷の手当てをしてくれたことや、一緒に歩いて同じものを見て、お互いに笑い合って時間を過ごしたこと全てがクラーラにとっての宝物だ。

 でもそれは今だけのこと。そのうちエイヴァルトは彼に相応しい身分の女性と結婚して未来へ進んでいく。クラーラとはもともと交わらない人生だったのだ。

 アイザックから忠告されたのに、それでもいいと言ったのは自分だ。だから嘆いたりしない。アイザックに心配かけない。泣くとしたら静かに一人で。

 みんなに見せるのは元気な顔だけでいい。


「わたしは元気で恋に恋するクラーラでいいのよ」


 クラーラは窓辺に寄り添い、闇に溶けたエイヴァルトの背中を見送り続けた。


 





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