1出会い
夕闇迫る中、逃げ込んだ裏路地で追いつかれてしまい引きずり倒される。圧し掛かられる前に相手の腹を蹴ったがダメージを与えるに至らず、両手を取られて濡れた地面に押しつけられた。
「さすがは元騎士様ね!」
「この状況で吠えるとはな。兄妹揃って嫌味な奴らだ」
気丈に睨みつけるクラーラだったが、恐怖で体は硬くなり小刻みに震えていた。その様を上から見下ろす男……アヒムは、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「アイザックが来るから!」
元とはいえ騎士になるような男に組み敷かれて逃げ出せるはずがない。クラーラは頼りになる兄の名で脅しをかけたが、アヒムは「はっ」と馬鹿にしたように笑った。
「一か月の遠征に出たのにどうやって?」
クラーラの兄アイザックは騎士団に所属している。平民出身ながら非常に有能で、若くして十の部隊を預かる部隊長の地位にあった。
その兄は現在、西方にある領主の要請を受けて不在。部隊を率いて大きくなりすぎた山賊の根城を制圧するための遠征に出ているのだ。
アヒムはどこからか情報を得て、アイザックがいない隙にとクラーラを襲ったのである。
「本当に卑怯ね。騎士をクビになったのも頷けるわ!」
「俺がクビになったのはアイザックのせいだ!」
ぱんっと頬を叩かれたクラーラは言葉をなくす。口の中が切れたのだろう、鉄臭い味が口内に広がった。
「それにお前だって、俺が付き合ってやるって言ってんのに断って恥かかせやがって。兄妹揃って愛人の子のくせしてお高く留まってんじゃねぇよ!」
愛人の子。
幼い頃からそう言われて育ってきたが、クラーラとアイザックは自分たちの父親が誰なのか知らない。母親が絶対に教えてくれなかったからだ。
母親であるディートリンデは商家の娘で、下働きとして城に上がっていた。そんなディートリンデは腹を大きくして実家に戻り、未婚でアイザックを出産したのだ。そして三年後には再び妊娠し、クラーラが生まれた。
ディートリンデは相手の男が誰なのか決して語らなかった。ただ妻子のある人だとだけ。両親は客商売ということもあって悪評を恐れ、ディートリンデと親子の縁を切った。
そんなディートリンデも五年前に病で亡くなっている。クラーラが十三歳、アイザックが十六歳の冬のことだ。
当時アイザックが騎士の叙勲を受けていたこともあり生活には困らなかったが、その頃に二人の前に現れたのがアヒムであった。
アヒムはアイザックと同期で二つ年上。同じく平民だが、平民だからこそ騎士の名に恥じぬよう清廉潔白であらねばならないと考えるアイザックに対して、アヒムは決して素行がいいといえる男ではなかった。
実力はあったが狡猾で自尊心が強く、仲間を陥れることを厭わない。そんな人間に背中を預けることができず、よくトラブルになっていたと聞く。
そんなアヒムだが、彼はクラーラを町で見かけて気に入ってしまい、躊躇なく声をかけてきたのだ。
クラーラはとても愛らしい娘だ。一目惚れされることがよくあるので、見知らぬアヒムに突然声をかけられても驚いたりしなかった。
けれど断ると腕を掴んで、強引に連れて行かれそうになり、恐怖のあまり悲鳴を上げて逃げ出した。
自尊心が強いアヒムは、騎士である自分が声をかけて断る女がいるなんて思っておらず、クラーラの態度にたいへんな怒りを覚えて付きまとうようになった。
声をかけられるたびにクラーラはアヒムを拒絶したが、拒絶すればするほどアヒムはクラーラに固執した。
間もなくして、もともとの素行の問題もありアヒムは軍から除籍されて騎士の位も剥奪された。クラーラへの接近禁止令も出されたが、そのせいで恨みが募ったのだろう。結果がこれだ。
「ここじゃやばいな。おとなしくしろよ」
アヒムは震えるクラーラの髪を鷲掴んで無理やり立たせると、口の中に布を押し込んで軽々と抱え上げた。
助けてくれる兄はいない。迷路のように入り組んだ路地で巻いてやろうと思ったのが失敗したせいで人目もない。このままではいけないと暴れても簡単に拘束されてしまう。
もう駄目なのだろうかと絶望しかけたところで人影が現れた。
アイザックと同じ濃紺の騎士服を身に着けた、すらりと背の高い青年だ。
彼はアヒムの肩を引くと同時に足をかけてひっくり返した。
クラーラは地面にたたきつけられると思ったが、瞬き一つの後には突然現れた彼の腕の中にいた。「ここで待っていて」と低く心地よい声が耳に届いて、そっと地面に下ろされる。そして瞳を瞬かせること数回。あっというまに伸されたアヒムは地面に転がってピクリとも動かなくなっていた。
「お嬢さん、大丈夫ですか?」
振り返った彼が手を差し伸べてくれる。
物腰柔らかく柔和な様は、髪も衣服も乱れておらず、あのアヒムを伸したばかりとは思えない。
ほんの少し癖がかかった淡い金色の髪。前髪の向こうには澄んだ青空のような碧い瞳。鼻筋が通っていて唇は薄く、何よりも声が心地よい。まるで王子様のような出で立ちにクラーラはぼうっと見惚れた。
「お嬢さん?」
首を傾げる様がこれまた美しい。
酷い目に遭ったのも忘れてため息が漏れるが、口に押し込まれた物のせいでくぐもった声がでた。すると美しい彼はクラーラの前に片膝を突いて、口に詰められたそれを取ってくれる。
「怪我をしていますね、これは酷い」
「このくらい平気です」
なんて優しい言葉遣い。きっと彼は貴族出身だ。貴族は傲慢だと思っていたが彼は違う。きっと心が美しくて素晴らしい人に違いない……と、クラーラは素敵な騎士を前にしてすっかり逆上せ上ってしまっていた。
「いえ、恐らく平気ではありませんよ。今はショックで痛みを感じていないかもしれませんが酷い怪我です」
殴られた頬は赤くなり腫れ始めていた。口もとには血がにじんでいて、腕や膝は打ち身や擦り傷だらけだ。両手首にはアヒムの手の跡がくっきりとついているが、目の前の美しい青年に釘づけのクラーラはそれに気づけない。
「よければ運びますが、触れても?」
「ええ、お願いします」
え、抱っこしてもらえるの? と思った瞬間、嬉しくて両手を伸ばしていた。
優しく気を遣いながら抱き上げられる。筋肉達磨のアイザックと違って細身だが、胸板は硬く、ちゃんと鍛えているようだ。
クラーラは落ちないようにと理由をつけて、彼の胸元にそっと手を添えた。
なんて幸せなんだろうと、襲われていたのも忘れて頬を染めていると、ばたばたと数人の騎士が駆けつける。
「エイヴァルト隊長、その人は?」
「そこで伸びている男に襲われていた。怪我をしているから近くの詰所で手当する。事情を聞くのはそれからだ」
「では……」
「任務は中止だ」
どうやら騎士たちは任務中だったらしい。クラーラからすると運がよかったが、彼らからするとクラーラのせいで任務を中止させられたことになる。
印象が悪くなるなと落ち込んでいたら、地面に転がっている男を確認した一人が「アヒムじゃないか」と声を上げた。
アヒムを知っているなんていったい誰だろうと思い、顔を上げてそちらへ視線を向ける。クラーラはその騎士と目が合い、互いに「あ!」と声を漏らした。
「クラーラじゃないか!」
「フランツさん、お久しぶりです」
走り寄ったフランツは「怪我をしたのか?」と、痛ましそうにクラーラを確認した。
フランツもアヒムと同じでアイザックの同期なのだ。部隊が違うので数年ぶりに再会したが、今もアイザックから名前を聞くので、隊が違っても交流はあるようだ。
「フランツ、彼女と知り合いなのか?」
クラーラを抱き上げる彼……エイヴァルトから心地よい声が漏れる。クラーラはフランツとの再会そっちのけでその声に聞き惚れた。
「知り合いも何も……彼女はその……アイザックの妹です」
なぜだかフランツは言いにくそうに紹介する。途端、エイヴァルトの体が強張るのを感じたクラーラは、どうしたのだろうと首を傾げた。
「君は……アイザックの、妹?」
「はい、そうです。アイザックを、兄を知っていますか?」
「……ああ」
なぜだか空気が重くなる。なに? とフランツに問うような視線を向けたら、はっとした彼は「彼女を預かります」と両腕を伸ばした。
「いや、私が責任を持つ」
しかしエイヴァルトはフランツの申し出を拒絶して、クラーラを抱く腕に力を籠める。
「クラーラですよ。アイザックの妹の」
「繰り返されなくても理解した」
「でも、その……」
言い淀んだフランツにエイヴァルトは「公私混同しない。彼女は丁重に扱う」と告げる。そのやりとりを見て、アイザックとエイヴァルトとの間に何かよくないことがあることを悟った。
それがなんなのか知りたいが、素敵な騎士様に抱っこされている幸せな今も堪能したい。クラーラはエイヴァルトの胸元をきゅっと掴んだ。
「フランツ、事後処理はお前に任せる」
「了解です」
心配そうにするフランツや他の騎士を残して、クラーラはエイヴァルトに抱っこされたまま裏路地を後にした。




